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カノン

~SELL 11 夢語~


――夢であって欲しい。さっき僕の抱いた夢はどんなに先でもいいから。


 ヒナギクさんの言葉に僕は何も言葉を返せない。
 いや、返す言葉が見つからない。
 僕とヒナギクさんは病室に向かっていた。何だかあまりにも遠く感じてならない。
「歩の呼吸が急におかしくなって、そうしたら急に胸を痛がって……」
「急に胸を?」
「うん。それで、ナギとマリアさんが歩の側について、千桜が七瀬先生を呼びに行ったの。それで私がハヤテ君を……」
「そうですか」
「胸が痛み出したってことはもしかして……?」
 ヒナギクさんの考えは分かった。
 きっとそれは乳がんによる痛み。
 歩は今まで元気だった。多少の風邪などの体調不良はあったけれど、歩は今回の出産に向けて大きな壁が阻むことなく来られたんだ。
 でも、現実は甘くなかった。
 がんは今まで水面下で笑いながら待っていたんだ。出産で体力が極限に低下しているのを見計らって、歩のことを襲い始めたに違いない。
 そうだとしたら、歩を早急に治療しないと手遅れになる!
「理由はどうであれ、歩が危険であるというのは間違いないんですね」
「……うん」
 そして、僕は歩のいる病室に入る。
「歩!」
 僕は歩の場所へすぐに向かう。
 歩はすごく苦しそうだった。出産の時とは違うまた別の種の痛みが歩を襲っていると歩の表情からすぐに分かった。
「歩! 僕ですよ! ハヤテですよ!」
「ハヤテ……君……」
「どうしたんですか! 息苦しいんですか? 胸が痛いんですか?」
「……まずは、手を握って……」
 歩の返事はすっかりと力がなくなっていた。僕は歩に言われたとおり、歩の左手を両手でしっかりと握る。
「心電図と呼吸器を早急に持ってきてください」
「は、はい!」
 横に立っていた七瀬先生が一緒についている看護師の女性に静かに言う。
「七瀬先生、歩は一体どうしたんですか!」
「出産による体力低下。そして、体力低下と元々持っていた癌細胞による合併症の可能性があります」
「合併症……」
「西沢さん、胸が痛いんですか?」
 七瀬先生の問いかけに、歩は苦しそうに辛そうに……頷いた。七瀬先生は小声で「やっぱりか」と呟いた。
「七瀬先生! 歩の身には何が起きているのだ!」
「三千院さん。西沢さんは癌細胞によって胸に痛みが現れているのだと思います。このまま痛みが続くなら、薬を投与しなければならない状況です」
「そんな……」
 お嬢様は落胆し、マリアさんにもたれかかる。
 そして、看護師さんが心電図と呼吸器を持ってくる。七瀬先生は歩に心電図の丸い円を描いた電極を胸につける。
 心電図のモニターに歩の心拍数、血圧の上限と下限の値が出力される。
「上が八十か、これは低いな……」
「歩はこのままだとどうなるんですか?」
「何とも言えませんが、この危機から脱するにはまずは西沢さんの訴える胸の痛みを軽くして、緊急手術を行い癌細胞の摘出を行わないといけません」
「緊急手術……」
 でも、歩は……十二時間以上も痛みに耐えて、ようやく出産をした母体なんだ。二時間経って少しは体力が回復したかもしれないけど、手術が行えるほどの体力は残っていないはずだ。
「そう、綾崎さんの考えているとおりです」
「えっ……」
「分かりますよ。綾崎さんの考えることは」
「でも、そうしたらどうすればいいんですか……?」
「まずは西沢さんの感じる痛みを取り除く他はありません。非オピオイドかコデインを持ってきてください。急いで!」
「は、はい!」
 再び看護師さんが走り出した。
 だが、その時だった。
 歩が激しく身体を横に揺らした。僕は必死にそれを押さえる。
「どうしました!?」
「治療は……しなくていいから……!」
「えっ? ど、どうして……」
「とりあえず……ハヤテ君。私に……話させて……」
 歩はそう言うと呼吸は荒かったものの、身体は落ち着いたようでゆっくりと仰向けになる。僕は今一度、歩の左手をしっかりと掴んだ。
「何だかちょっと落ち着いてきたかな……」
「そうですか」
「……でもね、何だか身体からすっと力が抜けていく感じなんだ。今……凄く、ふんわりとしてる……」
 歩は笑顔で言っているけど、それはつまり……。
「だめだ! まだ、私たちと話をするのだ!」
「まだ始まってないよ、ナギちゃん……」
「そうか。ならよかった……」
 お嬢様も分かっているみたいだ。もうすぐ、その時が訪れようとしている。歩の体力が底に着く時が。
 歩は穏やかな表情になって、話し始めた。
「私ね、こういう時が来るんじゃないかって思っていたの。私の我が儘の所為で私がもうすぐ死んじゃうんだっていうこと」
「えっ……?」
「そんな弱気なことを言わないで! 歩は赤ちゃんを産んだ、とても強い人なんだから……そんなこと言わないで……」
 ヒナギクさんは既に涙をぽろぽろとこぼしている。歩はそんな彼女に微笑みかけて、
「ヒナさん。私はね……ハヤテ君に病気のことを言われたとき、私の命を優先するか、ハヤテ君との子供の命を優先するかを考えたの。それで、私は……産まれてきた子の命を選んだ。だから、こうなるのはおかしくないんだよ」
「でも、あの時の歩は……すごく元気に答えたじゃない! 私とハヤテ君がこの先どうしようって不安になってたときに、歩はそれを吹き飛ばすくらいに元気だったのに」
「……当たり前だよ。だって、それが母親なんだもん」
「えっ?」
「私ね、分かったんだよ。母親になるってことがどういうことか」
「……」
 この場にいる誰もが、歩の言葉に口を挟めない。聞こえるのはお嬢様とヒナギクさんの微かな泣き声だけだ。
「自分のことよりも子供のことを守るってことなの。それがたとえ自分の命が消えることになるとしても、ね……」
「歩……」
「それで、私はさっき……目標を果たしたんだよ。ハヤテ君との元気な赤ちゃんを自分の力で産むってことを」
「でもそれは……まだ始まったばかりじゃない! これから長く続くハヤテ君と娘さんの三人で暮らすことだってあるのに……!」
「……そうだよね。でも、私は……悔しいけどもうその元気が残ってないんだ」
「あゆむ……!」
「ねえ、ナギちゃん」
「なんだ?」
「あの曲……かけてくれないかな?」
「あの曲……何の曲だ?」
 歩の聴きたがっている曲、僕にはすぐに分かった。
「パッヘルベルのカノンじゃないですか。そうですよね、歩」
「うん、さすがはハヤテ君だね……」
「そういえば、私の診察室にあったはず。すぐに取ってきます!」
 七瀬先生は病室を飛び出した。
 パッヘルベルのカノン……僕と歩にとっては思い出深い曲だ。僕たちの人生を大きく変える時にいつも、この曲がかかっていた。
 そして、歩が大好きだと言って最初に聴かせてくれたクラシック曲でもある。あの優しく美しい音色は、僕たちが一緒に住み始めてからも度々聴いていた。
「歩、頑張って……!」
 僕も次第に冷静を欠き始めてきたのか、歩の握る手の力が変な風に入ってしまう。でも、歩は何も痛がったりもしなかった。
 そして、三分も経たないうちに七瀬先生はCDとプレーヤーを持ってきて、さっそくカノンが収録されているトラックをかけ始める。
 その音色は僕たちの好きなカノンの音色と全く同じだった。
「あっ、この曲だ……」
「歩……」
「ハヤテ君、覚えてる? ハヤテ君と付き合い始めて、最初に私の家に泊まった日のこと」
「ええ、もちろん覚えていますよ」
「その時、ハヤテ君にこの曲のことを話して、その後……私たち、子供を作ったよね。その時の言葉は覚えてるかな……?」
「その時の言葉ですか……?」
 僕は必死に思い出す。この音色の力を借りて。
 でも、思い出せない。あの日のことは……歩と子供を作ったことしか覚えていない。この音色に乗せても思い出せない。
「覚えてないか……。でもね、こんなことを私は言ったんだよ。『どんなことになろうとも、私が責任を取る』って」
「どんなことになろうとも……って、まさか!」
 歩はもしかして、その時の言葉をただ守ろうとして?
 子供ができたことも、病気に罹ったことも、出産したことも、そして、今……こうしていることも全てはあの時の言葉によって誘われた歩の決断だったのか?
「まさか、子供ができるとは思わなかった。まさか、病気に罹るとは思わなかった。まさか、出産できるとは思わなかった。でも、今は違うの。その全部の責任が……今、降りかかったみたい……」
「歩が責任を取る必要はないんですよ! 第一に、そのことに誰が責任を取らなければならないんですか! 歩に子供ができたことに誰が嫌がりましたか? 出産したときにも誰が嫌がりましたか? みんなが喜んでいたじゃないですか!」
「ハヤテ君……それは分かってるよ。でもね、私はね今果たしたい夢が叶って、凄く満足している所なんだ……」
 歩のそんな言葉に、僕はもう落ち着いてはいられなかった。手を離し、歩の両肩に手を乗せて、
「歩の夢はそれだけじゃないです! 僕と婚姻届を出して、僕と結婚指輪を買って、高校を卒業したら僕と結婚式を挙げるって! ルカさんのライブだって、子供が産まれたら三人で会いに行こうって言っていたじゃないですか! 歩の夢の中で常に僕がいたように、僕の持つ夢には常に歩がいるんですよ!」
 部屋中に響くような声で。
 たぶん、今までの中で一番に大きな声で。
 僕は精一杯の気持ちを歩に伝える。すると、歩は両目から涙を流し始めて、
「ハヤテ君……ありがとう」
「ありがとうじゃないですよ……僕たちはこれから三人で、もっともっと家族を増やして! 歩との人生を僕は歩みたいんです!」
 僕は歩の身体を抱きしめる。
「私もね、そうしたいけれど……もうダメなの」
「歩……!」
「でも、忘れないで。私はね、たくさんの人に支えられてきて過ごしてきたこと……それは、今も同じでこれからもいっしょ。私も天国に逝ったら見守ってるから、だから……安心して」
「だめだ、僕は歩を天国には逝かせません!」
 そして、歩は最後の力を振り絞って……僕の身体を離した。
「ハヤテ君、私ね……ハヤテ君のことずっとずっと好きだよ。愛してるよ。だから最後に口づけをしてくれないかな……?」
「歩……」
 僕は言葉に詰まった。
 口づけをしたら、歩が永遠にどこかに去ってしまうような気がして。
 でも、そんなことを僕に決めることはできなかった。そして、決めるような時間はなかった。
 なぜなら、もう……僕と歩の唇は重なっていたから。
「歩……」
「ハヤテ君……じゃあね」
 そして、歩はゆっくりと目を閉じた。
 力なく歩は仰向けに病床へ倒れていく。
 同時に、心電図の画面に脈拍数、心拍数が共にゼロと表示される。そして、危険信号がなり始める。
「歩! 死ぬな! まだ死ぬんじゃないっ! お前を必要としているのは、ここにいる全員以外にもまだまだたくさんいるんだぞ! 七瀬先生、歩を助けてくれっ!」
「分かりました! 綾崎さん、ちょっと変わってもらえますか!」
 お嬢様の言葉に名波先生は頷いて、歩の胸の上から心臓マッサージを始める。
 しかし、いっこうに心電図は正常に戻らない。
「歩、死なないで……!」
「ルカだって綾崎君と娘さんと三人で来るのを……楽しみにしているんだぞ! 生きて欲しい人はたくさんいるんだ!」
「西沢さん、もう一度目を開けてください……!」
 ヒナギクさん、千桜さん、マリアさんの声にも歩は全く反応することなく……七瀬先生の心臓マッサージは続けられる。
「西沢さん! 私の妻だって乳がんを乗り越えて子供が産まれたんですよ! 私はあなたが綾崎さんと同じ道を辿れる希望をまだ捨ててないんです! どうか目を覚ましてください!」
 立ち尽くす僕の中で、一つの答えが見つかった。
 七瀬先生はどうしてここまで歩のことを親身に診察してくれたのだろうか。
 それは、自分の奥さんが歩と同じ経路を辿ったからだ。だからこそ、あの時の決断を七瀬先生は快く頷いてくれたんだ。医者とかではなく、一人の子を持つ父親として。
「心拍数がゼロになって何分経った!?」
「今、二分が経ったところです!」
「こうなったら……AEDで高圧電流をかける準備に入るぞ! 私が心臓マッサージを続けているから、早急に持ってくるんだ!」
「分かりました!」
 看護師さんが三度目の全速力で病室を飛び出した。
 七瀬先生がここまで口調を荒ぶるのも見たことがない。それだけ、歩に生きて欲しいという気持ちが込められているんだ。
 それは非常に嬉しいことなのに、僕は何だか釈然としなかった。だからこそ、僕はこうしてただ立ち尽くしているのかもしれない。お嬢様、マリアさん、ヒナギクさん、千桜さんは声を掛けているのに僕は声すら出さなかった。
「七瀬先生! それで歩は助かるのか!?」
「やってみないと分かりません! しかし、ゼロではないことは確かだと思います。やらないよりは絶対にいいに決まってますよ!」
「さすがは医者だな……でも、歩の心臓はそれまでに動き始めて欲しい」
「西沢さん……お願いですから目を覚ましてください。そして、その時には皆さんでお祝いしましょう、皆さんで!」
 マリアさんの呼び掛けもかなり力がこもっていた。
 僕が声を掛けるとしたら、一体どんな言葉を掛ければいいのだろう……そんなことを考えるうちに看護師さんがAEDを持ってきた。
「AED持ってきました!」
「分かった! これからAEDによる電気ショックを与えたいと思います。皆さんは西沢さんから離れて、念のためベッドには触れないでください!」
 七瀬先生の言葉にお嬢様たちがその場を離れる。
 歩の胸を露出させ、七瀬先生は二つの電極を歩の胸部に触れさせる。
「チャージ完了しました!」
「離れて!」
 そして、一回目の電気ショック。しかし、心電図は変わらないまま。すぐに七瀬先生は心臓マッサージを再開する。
「先生、戻りません!」
「いや、もう一度だ……もう一度チャージしてくれ!」
「分かりました!」
 何だか僕と、それ以外の人の間に溝があるような感じに思えた。
 悪く言えば他人事のような感じで僕は見てしまっていた。たまたま居合わせた傍観者のような感じで。
「チャージ完了しました!」
「皆さん離れて!」
 そして、二回目の電気ショック。しかし、これでも……心電図は変わらないままだった。七瀬先生は再び心臓マッサージを始める。
「七瀬先生! もう歩の心臓は元に戻らないのか!?」
「私も最大限のことはやっています! しかし、もう心臓が止まってから五分は優に超えている! 私はまだ諦めませんが……!」
 一生懸命にやっている七瀬先生の顔からは汗がにじみ出ていた。
 たぶん、僕が言葉を出さないとこのままの状態がずっと続く。
 歩。君の人生はここで終わってしまっていいのか? 歩の人生に後悔という二文字はなかったのか?
 僕は必死に考えた。歩の全てのことを……僕の知っている全てのことを。


 僕の隣で常に笑顔でいた歩。
 ルカさんと出会って興奮していた歩。
 子供を作るときに見せたありのままの歩。
 そして、子供が産まれたときに見せた母親の歩。


 これ以外にもたくさんの歩が僕の中では生きている。
 でも、その全ての先には……歩の絶対に叶えたい夢があったんだ。僕との赤ちゃんを何としても産むこと。
 それを果たした歩は、満足して逝こうとしているんだ。
 僕らはもしかしたらそれを阻もうとしているのかもしれない。微かな希望を夢見て、七瀬先生が必死に策を考えて。
 ここまで歩の意志が堅いのなら、僕はもうそれに従う他にないかもしれない。
 そして、歩が取りたい責任を取らせてあげるべきなのかもしれない。
――全てが歩の望むことなら。
 僕は歩の代弁者になったつもりで、七瀬先生に告げた。


「七瀬先生、もういいです」


 静かに告げると七瀬先生の心臓マッサージをする手が止まった。
「綾崎さん……」
「歩はよく頑張ってくれました。僕が考えしないほどに……でも、これ以上歩を苦しめることはありません。安らかに眠らせてあげてください」
「ハヤテ……」
「僕もお嬢さまたちと多分、同じ想いです。でも、歩は……自分から前向きに僕たちを見守ると言ってくれたんですよ。だったら、その言葉を叶えてあげましょうよ。きっと、それが今、歩が叶えられる夢だと思うので……」
 そうだ、これが答えだ。
 僕は歩の側に近寄った。まだまだ、何時でも目を覚めてくれそうな……微笑んで眠っている歩を見る。
「歩。君は母親として一番に大切な仕事を果たしたんだよ。ありがとう」
 僕はゆっくりと、魂の抜けた歩の唇にそっと口づけをした。


――唇はまだこんなに柔らかいのに。
――まだ温もりだってこんなに感じられるのに。
――他の人と違うのは一人の子供を産んだ強い母親だけだっていうのに。


 どうして、死んでしまったんだよ。
 自分の中で歩の命の灯火が消えたのを受け入れたはずなのに、僕は不意にそんな感情を芽生えさせてしまう。
 いや、それが当たり前なんだ。
 歩には生きて欲しいんだ。
 でも、その事実は受け入れなければならない。
 そして、七瀬先生が告げた。
「午前二時十四分。死亡確認。ご冥福をお祈りします」
 七瀬先生と看護師さんは僕たちにゆっくりと頭を下げた。僕たちも七瀬先生には感謝の意を込めて、深く頭を下げた。
 ただ、お嬢様やヒナギクさんは泣いていた。それをマリアさんが優しく抱きしめていた。当然、マリアさんの目も涙が浮かんでいる。
「西沢さんは本当に強い方でした。十八歳にして妊娠、乳がん、そして出産……普通なら何かを断念するところなのですが、西沢さんは前向きに最後まで闘ってくれました」
「七瀬先生は歩のことを……どう見えていたんですか?」
「……あの時の妻のようでした。妻のように、誰かと今を生きて欲しかったのですが……本当に残念です」
 七瀬先生は本当に神妙な表情をして、僕に言う。しかし、七瀬先生が歩の担当医にならなければ、歩は決して満足のいく逝き方はできなかったと思う。
 僕はそのことも込めて七瀬先生に、
「七瀬先生。今日まで本当にありがとうございました」
 僕は深く頭を下げた。天国に逝ってしまった歩の分まで。
 十秒くらいだろうか。僕は頭を下げ続け、ゆっくりと七瀬先生の顔を見る。すると、七瀬先生は穏やかに笑顔を見せていた。
「西沢さんには医者として考えさせられました。患者さんの望むことは、決して医学で今まで示されてきたことばかりではない、と」
「と、言いますと?」
「西沢さんは本当に病気と正面から向き合い、そして、産まれてきたお子さんのために自らの命を犠牲にしてまで闘ったということです。普通なら、誰かがそこに止めに入ることをするんですよ。でも、私にはできなかった」
「できなかった……?」
「ええ。私は妻を病から治し、何時か同じ境遇の人は妻のように直そうと決めたのですが、西沢さんを前にして私はできませんでした。そう、彼女は私の想像を遙かに超えた強い人だったからですよ」
「僕もそれは同じ気持ちです。歩はどんなことを前にしても、笑顔でいた。僕も歩の決めたことだと思えば、いつの間にか首を縦に振っていたんです」
 そうだ、歩はいつも前向きに物事を考えていた。
 娘を妊娠したときも。
 乳がんが発症したと分かったときも。
 そして、自分がもうあと残り少ない時間しか残されていないと知ったときも。
 歩は常に前を見続けた。自分がいつも不安になる、心細くなりそうなときに誰かを元気づけていた。
 それは、気づけば七瀬先生までをも圧倒していたんだろうな。
「私も一人の人間になっていました。西沢さんの希望ならば、私は七瀬潤としてその言葉を受け入れようと決めたんです」
「だから、あのような誓約書を作ってくれたんですね」
「……ええ。あの時の誓約書はこの先ずっと取っておきますよ。西沢さんはきっと、私にとって忘れることのない患者さんになりましたから」
「そうしてもらえると、僕にとっても歩にとっても……そして、ここにいる皆さんにとっても嬉しいことだと思います」
 そして、部屋の中を見渡すと……泉さんとアーたんが加わっていた。どうやらお嬢様が事情を説明したらしく、歩の遺体を見てもさほど驚いていないようだった。多少の涙はあったものの。
 お嬢様は歩の顔を見ると、
「本当に幸せそうなまま逝ったんだな。歩の好きだったこの曲に包まれながら」
 気づけば、ずっと鳴り続けていた。
 七瀬先生が持ってきてくれたCD。どうやら、このCDにはカノンしか収録されていないそうで、ループ再生の設定になっていたようだ。
 そうか、歩はこの曲に乗って天国に逝ったのか。
 お嬢様が優しく微笑んでいたのも分かった。この曲は誰かを祝う時……例えば結婚式などで流れる定番の曲で、その優しい曲調が印象的だ。思わず、その音色に部屋にいる誰もが聞き惚れてしまう。悲しみが少しでも飛んでいくように、ほんの少し笑顔が見えたような気がした。
「みんな、歩の周りに立つんだ」
 お嬢様がそう言うと、部屋にいる全員が歩の遺体が横たわっているベッドの周りに立った。
 僕から時計回りに、七瀬先生、ヒナギクさん、千桜さん、泉さん、アーたん、マリアさん、お嬢様の順番だ。僕とお嬢様が歩の顔にもっとも近い位置にいる。
「目を瞑って歩のことを心の中で思うんだ。それじゃ、これから……」
 僕は目を瞑った。自然と歩の顔が浮かんでくる。
 そんな中、お嬢様の静かな一言。


「黙とう」


 静寂に包まれる。
 僕は歩との日々を今一度思い出した。僕たちが付き合い出す前の潮見高校での日々、白皇学院に転校してからの色々あった日々。
 そして、僕と付き合い始めてからの日々。一緒に住み始めてからの日々。全てを僕の心の中で通わせていた。
 僕があの時……七瀬先生に処置を止めさせたのに。歩のことを考えると、こんな気持ちがわき上がってくるよ。



――もう一度だけでも、歩と一緒に笑い合いたかった。



 歩が天国に旅立ってから三時間。
 僕は一人、病院の廊下から東京の景色を眺めていた。そろそろ夜明けを迎える頃。僕は一人で無音の中をたたずんでいた。
「歩……」
 その声の直後、どこか遠くから足音が聞こえてくる。それは、僕の方へとどんどん近づいて……その音に立体感が増してきていた。
「ハヤテ……」
「お嬢様、ですか」
 お嬢様の顔を見ると、目元が少し赤くなっていた。それに、あまりぱっとしないような表情だった。
「少しでも眠ろうと思ったのだが、やはり眠れなくてな……」
「そうですか」
「ハヤテは眠れたのか?」
「いえ、眠れませんよ。やっぱり、あんなことがありましたから……」
「そうだよな、変なことを訊いてごめん」
「いいですよ」
 僕はお嬢様の頭を優しく撫でた。思えば、歩にこうして頭を撫でたことがあっただろうか? あったとしても数えられるくらいにしかないと思う。
 しかし、お嬢様の髪は柔らかいな。
 僕はこうしていることで、執事として冷静でいられると思った。でも、そんなことはできるわけがなく、僕はすぐに手をお嬢様の頭から離した。
「私、本当は知っていたんだ」
「何を、ですか?」
「歩は……出産した後にこうなってしまうかもしれないということを」
「えっ……?」
 すると、お嬢様は突然僕の方に向かって頭を深く下げた。
「歩から聞いていたんだ! 癌の進行はかなり進んでいて……出産をすれば死ぬかもしれないってことが。でも、歩にこのことを言うのは止められていて、そうしたら歩が死んでしまって……本当に、すまない……」
「お嬢様……」
「馬鹿だよな。そんなことを知っていたら、一番泣いちゃいけないのに、私が一番泣いてしまった。本当に私は弱虫だよな……」
 そういえば、出産が終えても……歩の表情がどこか暗く感じたのは、このことが原因だったからなのか。
 出産というのは普通でもリスクを被るものなのに、乳がんでしかも進行していれば、それは無謀に近いとも言われることだ。
 それを分かった上で歩は出産をして、きっと体力が極限までに落ちて……もうその時に自分の死を悟ったのかもしれない。
 そうだとしたら、僕は悔しい。歩が断固としてそれを気づかせないようにと振る舞っていたのだとしても、僕は気づきたかった。気づいたからといって何ができるとかじゃない。ただ、気づきたかった。
 もし気づいていたら、歩の心の支えに少しでもなっていたかもしれない。ただ、そんなささやかな理由の下で。
「お嬢様に非はありませんよ。言わないでおいて正解だったと思います。それに、泣くのは当然ですよ。誰かが死に近づいているのに、悲しまない友達なんているはずないじゃないですか」
「友達……」
「お嬢様は優しい人ですね。執事として嬉しいですよ。本当に……」
 ああ、やっと涙が出てきた。
 歩が逝ってしまったときにも、お嬢さまたちは泣いていたのに……僕だけ泣かなかった。それが今になってやっと来たのか。
「ハヤテ……」
「きっと、歩は天国で微笑んでくれていると思いますよ。ほら、東の空を見てください」
 僕とお嬢様は廊下の窓から東の空を見る。
 少しずつ昇ってくる太陽と共に、降り注がれていく光。それは、僕たちの見ている景色を美しく輝かせているように思える。
「昨日の予報では今日は雨のはずだったんですよ。きっと、歩が……僕たちに光を与えてくれたんですよ」
「歩が……」
「歩は皆さんに温かさを与える、そんな存在になったんだと思います。この光と同じように、ね」
 そうだ、歩は希望を与えてくれた。
 僕はただ失った訳じゃない。歩は僕との間に作った大切な宝物を遺していったじゃないか。これからは、それが僕の希望になる。そして、それはお嬢さまたちの希望にもなる。そう信じて、僕たちは歩き始めるんだ。
「そういえば、ハヤテ」
「なんですか? お嬢様」
 お嬢様は頬を赤らめて、少し恥ずかしそうに……僕の方をじろじろと見ている。そして、意を決したように僕に言った。
「私はずっとお前の隣にいる。これから何があろうともな。その……私では歩の代わりにはなれないだろうか?」
「お嬢様……」
 たぶん、これは……告白というヤツだよな。
 お嬢様は真剣だ。この上なく真剣に、そして今までの中で一番……僕に素直な気持ちを明かしてくれたんだと思った。
 しかし、
「歩の代わりなんてどこにもいませんよ」
「……そう、だよな……」
 お嬢様は少し悲しそうな表情をする。
「だって、歩は歩。お嬢様はお嬢様じゃないですか。歩の代わりになったとしても、きっと僕はお嬢様を求めてしまいますよ」
「ハヤテ……」
「僕はこれからもお嬢様の執事としてこの先もお側で仕えるつもりです。歩もきっとそれを望んでいると思いますから」
「そうだよな」
 そして、僕とお嬢様はいつものように微笑みあった。そうだ、笑顔でいなきゃ歩に示しがつかないもんな。
「私はハヤテと娘さんを支えていくつもりだ。それは、マリアやヒナギク、千桜、泉、アリス、ルカ……それ以外の人もみんな同じだ。そのつもりでいるさ」
「……ありがとうございます」
「でもな、私は諦めないぞ。私はハヤテと……その、け、結婚することだって視野に入れているんだからな!」
「あははっ、その時はよろしくお願いします」
「……その言葉、一生忘れないからな」
 そうだ、僕は一人じゃない。
 僕と歩のことを笑顔で受け入れ、そして、僕たちの幸せを願っていてくれる人はこんなにいるんだ。
 そして、歩が逝ってしまった今、僕と娘の幸せを心から願っている人は、遙か遠くにいる。
 僕はこれから一人の父親として、娘を幸せにする。歩が遺した僕の親として最大の目標はきっとそれだと思うから。
 たくさんの人たちと共に、僕は歩き始めた。
 温かく照らしてくれる太陽の下で。


――それから、二十年が経ったんだ。



vol.13に続く。ハヤテは二十年来の思い出を娘に語り通した。
歩の好きだった『カノン』とともに。次回、ついに完結!
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