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カノン

~SELL 10 産声~


――その日は突然やってきた。


 六月七日。
 歩の誕生日から三週間ほど経った。爽やかな春の日々から徐々に梅雨の蒸し暑い日々に変わろうとしていた。
 妊娠はついに十ヶ月目に入った。これからはいつ歩に陣痛が起こり、出産まで行ってもおかしくない。僕が学校に行く間はマリアさんも常にそのことには細心の注意を払ってくれるらしい。
 また、病気の進行も思ったよりも進んでおらず、このまま順調な経過で進めば普通に出産できるらしい。
 朝、歩と朝食を食べて窓の外を見ると空は曇天だった。
「ハヤテ君、今日は雨が降るみたいだから傘を持っていった方がいいよ」
「そうですね。もうすぐ梅雨入りですかね」
「そうだね。この先の天気も雨の予報が続いているから……」
「歩も雨で洗濯物を取り込むときは無理せずにマリアさんに言ってくださいね」
「大丈夫だって」
 まるで我が子の頭を撫でるように更に膨らんだお腹をさすりながら、歩はゆったりとした口調で僕にそう言った。
 もうすぐ子供が産まれるからか、歩の雰囲気も大分変わったような気がする。何だか母親としての包み込むような雰囲気を醸し出しているように思える。
「ハヤテ君、準備ができたら玄関まで送るよ」
「歩……」
「毎日の日課じゃない。感慨深く私のことを見られても、何だか困っちゃうな」
 歩は優しい笑顔で僕に言う。
 ここ最近は出産が近づいてきたのか、歩は学校を休みがちになっている。このまま続けば出席日数が足りなくなるかもしれない。いっその事、高校にも産休という素晴らしい制度を導入してくれればありがたいのだが。
 まあ、どちらにせよ出産を無事に迎えないと今後のことは何とも言えないのが現状だ。情けないけれど。
「さあ、早く準備して。ハヤテ君」
「はいはい」
 朝食の片付けは歩に任せよう。
 僕は学校へ行く準備をする。教科書、ノート、筆記用具……あと、歩に言われた通り折りたたみ傘をバッグに入れる。
「ハヤテ君は夏服で学校には行かないのかな?」
「僕はナギお嬢様の執事ですから。一年中、執事服で登校するって決めているんですよ」
「でも、これからの季節は大変じゃないの?」
「そこのところは大丈夫ですよ。今着ている執事服は夏仕様で、通気性も抜群で汗などもすぐに蒸発してしまいますし」
「へ、へえ……そうなんだ。さすがは三千院家だね」
 どこの高校でも六月の一日に衣替えをして、冬服から夏服へと変わる。そういえば、歩の夏服の制服姿も僕が同じ高校に通っていたとき以来、あまり見ていないな。
「私も早く元気になって学校に行きたいよ」
「……そのためにも元気な赤ちゃんを産んで、元気に育てましょうね」
「うん、そうだね」
「それでは、行ってきます」
「じゃあ、玄関まで送るよ。でも、その前にさ……ちょっとしてほしいことがあるんだけど、いいかな?」
「いいですけど。何でしょうか?」
 僕は部屋の扉の前で歩の方に振り返ると、歩は目をつむったまま僕の方を向いている。ま、まさか……。
「いってらっしゃいのキス、してくれないかな」
「そ、そうですね……」
「もう、してもいいって言ってくれたじゃない。早くしてくれないと、そ、その……怒っちゃうかな」
 こういう風に催促をされてしまっては、断ろうにも断れない。
 まあ、お嬢様たちの前で熱い口づけをしてしまったし……幸い、今は二人きり。軽くするくらいならいいか。
「分かりました。動かないでくださいね」
「う、うん」
 僕は歩の両肩に手を乗せて、唇を軽く歩の唇に触れた。いつでも変わらないこの柔らかい感触は、恥ずかしさを取り除けば癒しになる。
 一度だけにしようと思ったけど、僕はもう一度。更にもう一度。気づけば数回、歩と唇を重ねていた。
「なんだ、ハヤテ君も意外とその気があるんだね」
「いえ、その……恥ずかしいですけど、してみると意外といいといいますか。も、もちろん歩が相手だからですけど」
「そっか。じゃあ、二人目ができるのも時間の問題かもね」
「な、何を言っているんですか! 一人目もまだ産まれてもないのに……」
「あははっ、冗談だよ。でも、嬉しいな。今の一言」
「……が、学校に行ってくるんで玄関までお見送りお願いします」
「ハヤテ君、照れてるのかな。かわいいなぁ」
「……」
 僕は何も言わずに部屋から出た。
 歩の言うとおり、僕は照れていた。照れていたというか、恥ずかしいという気持ちが強い。
「あら、ハヤテ君、歩。おはよう」
「綾崎君と西沢さん、おはよう」
「おはようございます。ヒナギクさん、千桜さん」
「おはよう。ヒナさん、千桜さん」
 玄関には今から学校に行こうとしている制服姿のヒナギクさんと千桜さんの姿があった。お嬢様の姿はない。
「今日も頑張ってくださいね、ヒナさん、千桜さん」
「ありがとう、歩。何かあったら周りの人に声を掛けるのよ?」
「ハヤテ君にも同じこと言われたよ」
「……そう」
「しかし、綾崎君とヒナの言うとおりだ。無理せずにな、西沢さん」
「うん、ありがと」
 歩が母親になろうとしていること。
 それは、僕だけではなくて……ムラサキノヤカタに住んでいる住人全体までその空気は広がっていた。
 まるで、このアパート全体が一つの家族のように。
 まあ、お嬢様のように前から普段と変わらず過ごしている人もいるけれど。でも、それはまたこの空気を安定させる役目をしてくれるのでいい。
「じゃあ、行ってきます。歩」
「うん。いってらっしゃい」
 僕とヒナギクさんと千桜さんは、歩の見送りで外に出る。いつものように、学校までの道のりを三人で話をしながら。ゆっくりと。
 今日も平穏に過ごせると思った。空模様は怪しいけれど、平穏に過ごせると。


 白皇学院。
 ヒナギクさんは時計塔に用があるらしく、僕は千桜さんと一緒に教室に向かった。
「綾崎君は傘持ってきたか? 午後から雨が降るらしいけど」
「持ってきましたよ。歩に持って行った方がいいと言われましたので」
 僕は鞄の中に入っている折りたたみ傘を千桜さんに見せる。すると、千桜さんはくすっと小さく笑って、
「本当に綾崎君は西沢さんとラブラブなんだな」
「学校でそういうことを言わないでくださいよ! その、恥ずかしいじゃないですか」
「一緒に住んで半年になるのに未だに恥ずかしいって……」
 くすくすと上品に笑っていたのが、段々と声を上げて千桜さんは笑い始めた。別に恥ずかしいことは恥ずかしいでいいと思うんだけど。
 しかし、こういう風に言ってもらえるのも千桜さんと僕の関係が、友達であって同じアパートの住人だからだ。客観的に僕と歩のことを見ているというか。僕や歩が何か悩み事を抱えたとき、マリアさんの次に相談するのは千桜さんだ。
 彼女のような存在が同じアパートにいること。意外と僕らは強みに感じている。
「子供がいるってことも知られてるのに」
「産まれていないので、正確には子供はまだいませんけど。というか、こういうことが知られたら何か噂でも立てられるのに、何もないんですね」
「まあ、綾崎君がナギの執事だっていうこともあるし……それに、綾崎君は他の人を大事する人だってことは分かってるからじゃないか?」
「そうだったらいいですけどね」
「あとは、綾崎君の相手である西沢さんが……白皇学院の生徒じゃないっていうのも意外と平穏に過ごせている一因かもしれないな」
 たしかに、それは言えている。
 もし同じ学校で、しかも同じクラスだとしたら。全面的に応援してくれる温かい場所になるかもしれないけど、同時にそこは常に注目が集まる場所になる。
 その場所が僕と並べることができるような位置だとしたら、歩はもしもの時の逃げ場を失うことになる。一人でいたい時の場所、涙を流したいときの場所とか。
 白皇学院と潮見高校。接点となる要因は少ない。こういう環境だからこそ、僕と歩はここまで来られたかもしれないな。
「しかし、もっとも言えるのは……ここのクラスには、お嬢様やヒナギクさん。伊澄さんに瀬川さん、花菱さん、朝風さん。愛歌さんに……もちろん、千桜さんがいたからこそですよ」
「……そう言ってくれると私も嬉しいな」
「もちろん、マリアさんやルカさん、七瀬先生のおかげでもありますね」
「確かに、ルカに会ったときの西沢さんの驚きぶりは今でも覚えてるよ」
 僕も覚えている。
 去年の年末、歩と住み始めた頃。歩にとって、人気アイドルが目覚めたら目の前に立っていたというのは夢に見ないことだっただろうから。
 今となってはそれが、ルカさんと歩の親交が始まった思い出深い日である。春にはコンサートに招待してもらったり、誕生日には新譜をプレゼントしてもらったり。今日も歩はあの曲を聴いているんだろう。
 僕と千桜さんは自分たちの教室に入る。
「おはよう、ハヤ太君。ちーちゃん」
 真っ先に声を掛けてきたのは泉さんだった。いつも通りの笑顔で話しかけてくる。
「おはようございます。泉さん」
「おはよう。泉」
「今日はヒナちゃんと一緒じゃないの?」
「ヒナギクさんは生徒会関係の仕事があるようなので、もう少ししたら来るでしょう」
「そっか~。ヒナちゃんも大変だね~」
 まるで、全く関係のない他人事のような口調で泉さんは言った。まあ、他人事のようであるのは間違ってはいないけど。
「今日も歩ちゃんは元気だったかな?」
「ええ、体調も安定していますし。このまま順調にいけば出産までいけると思います」
「じゃあ、誕生日プレゼントの出番も日に日に近づいているってわけだね」
「……ええ、まあ」
 一応、箪笥の中に大事に保管してありますよ。
 たしかに、泉さん達のプレゼントが使う日が近づいているということはすなわち、僕と歩の間の子供と顔を合わせる日も近づいているというわけだ。
「私への誕生日プレゼントも楽しみにしているからね」
「そういえば、二十一日が泉さんの誕生日でしたか」
「にははっ、そうなのだよ」
「そうですね……僕と歩から粉ミルクのお返しでもしましょうか。もらった粉ミルクで作ったミルクとか」
「そんな嫌だよぉ~! いくら私でも、そんなプレゼントは困っちゃうよ!」
 確かに、六月の下旬に粉ミルクで作ったミルクを渡すのは、梅雨の影響でカビなどの衛生上の問題で困ってしまうだろう。きっと、泉さんはそういう意味で言っているわけじゃないと思うけど。
「それでは、泉さんは何が欲しいんですか?」
「そうだねぇ……」
 泉さんは右手の人差し指を下唇に当てて、う~んといった表情で考えている。そして、どういう経路を辿ったのか、その答えは、
「ハヤ太君との赤ちゃんが欲しいかなぁ。今、私と話すことでホットな話題じゃない」
「……それは僕が非常に困ってしまいますね」
 ホットな話題といっても、歩が妊娠しているんだから自然と話す話題がその方向へとなってしまうのでしょうがない気がする。
 しかし、今の言葉を少し笑いながら言ってしまうところが、さすがは泉さんというところだ。僕は頭が上がらない。
「ていうか、普通はそういうことを朝の教室で言うか?」
「……ちーちゃんに言われて、ちょっとだけ恥ずかしくなってきたよ。よくよく考えれば、私、凄く恥ずかしいこと言ってたんだ……」
 それが普通の反応ですよ、泉さん。
 今の話を聞いていた千桜さんは少し顔を赤らめて、僕と泉さんからは視線を逸らせていた。
「ご、ごめんね。ハヤ太君。歩ちゃんがいるっていうのに」
「別にいいんですよ。分かってくれれば」
「で、でもね! 私に粉ミルクをあげるっていうのはちょっとショックだよ! 確かに粉ミルクの味って優しくてちょっとだけ好きな自分がいるけどね。でもね、私は赤ちゃんじゃないのはハヤ太君も分かってるよね?」
「分かっていますよ。それに、粉ミルクをあげるなんてデリカシーのないことはしませんよ」
「冗談でも言うこと自体にもうデリカシーに欠けているのだ」
「ご、ごめんなさい」
 確かに、僕はデリカシーに欠けているかもしれない。歩に対しても気をつけていかなければならないな。
 僕と泉さんがそんな話をしていると、ヒナギクさんが教室に入ってきた。会長だからか挨拶をしている生徒が多い。
「おはよう、ヒナちゃん」
「おはよう、泉」
「ねえねえ、聞いてよ。ハヤ太君ったらね、私の誕生日プレゼントに歩ちゃんの誕生日プレゼントであげた粉ミルクを使ったミルクをあげるって言うんだよ。いくらいじめられるのが好きな私でも、これは酷いと思うよね?」
 泉さんのいつになく真剣な表情から発せられる言葉にヒナギクさんは、僕に冷たい視線を浴びさせることになった。
 何だか季節は梅雨に差し掛かろうとしているのに、少し寒気を感じるな。
「酷いというか、第一にデリカシーが欠けてるんじゃない?」
「泉さんにも同じことを言われました」
 女性の間ではデリカシーという言葉がブームになっているのかな。
「私の時はちゃんとクッキー作ってくれたじゃない」
「そうですね」
「迷ったら泉にもクッキーを作ってあげるといいかもしれないわ。あのクッキーは他の人に勧められるほど美味しかったし」
「あっ、それ聞いてクッキー食べたくなったな。ハヤ太君」
 ヒナギクさんが推してくれるなら泉さんへの誕生日プレゼントはクッキーにしようか。泉さんも凄く食べたそうにしているし。
「それじゃ、泉さんにはクッキーをプレゼントしますか」
「うん。じゃあ、約束だよ。ハヤ太君」
「ええ、約束です」
 そして、子供らしく泉さんは僕にゆびきりげんまんしてきた。嘘をついたら針を千本飲まされるという意外と子供の約束の仕方では重い方法だ。
「そろそろ時間になるから、席に着きましょう」
「そうですね、ヒナギクさん」
 僕は自分の席に座った。
 今日はお嬢様が学校に来ていないので、僕の前の席は空席。右隣にヒナギクさんで左隣が泉さん。後ろの席が千桜さんである。
 お嬢様の席が空だというときもあるけれど、今日も平穏に授業を受けて一日を過ごせると思った。


――そう思っていた。


 午前中の授業ももうすぐ終わり、昼休みに差し掛かろうとしていた。
 昼ご飯は何にしようかと考えていた時だった。
――プルルッ!
 授業をする先生の声だけが響く教室内で、僕の携帯の着信音も鳴り響いた。クラス中の視線が僕の方に集まる。
「すみません。ちょっと席を外します」
 誰が電話をかけてきているのかを確認せずに、僕はそう言って廊下に出た。というか、普通はそういうことを言わないだろうと思った。
 廊下に出て携帯を開くと、着信元はお嬢様。何かおつかいなのかと思って電話に出ると、突然、
『歩が陣痛を起こして、今病院にいるのだ!』
「えっ?」
 あまりに威勢のいい声と、言っている内容が想定外だったので逆に力が抜けて甲高い声を上げてしまった。
 しかし、落ち着いて考えれば深刻な事態に陥っている。
「陣痛ですか……ということは?」
『ああ、部屋で歩が破水をして……マリアがそれを見つけてすぐに救急車を呼んだんだ。それで、私とマリアも同行して白皇病院にいる』
「何ですって……それで、歩の容体は?」
『今、分娩室に入ったところだ。マリアは歩のそばについている。七瀬先生も時間が空けば分娩室に行ってくれるそうだ。ハヤテもすぐに来てくれ!』
「分かりました!」
『できれば、千桜やヒナギクたちにも来てほしいところだが……』
「もうすぐで授業が終わって昼休みに入るので、来てくれるかどうか聞いてみます」
『分かった』
「お嬢様、何かあったらまたすぐに連絡をください」
『ああ、もちろんさ。とにかく、できるだけ早く来るのだぞ!』
「はい!」
 電話を切る。
 同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。これだったら、ヒナギクさんや千桜さん達も一緒に来てくれるかもしれない。
 教室の中に入るとヒナギクさんと千桜さんのもとへ行く。
「ハヤテ君、誰からだったの?」
「お嬢様からです。歩が陣痛を起こして、白皇病院の分娩室にいるらしいです」
「な、なんですって! だったらすぐにでも行かなきゃだめよ!」
「それで、できればヒナギクさんや千桜さんも来て欲しいとお嬢様は言っていたんですが、一緒に来てもらえませんか?」
 ヒナギクさんと千桜さんは互いに顔を見合っている。
 あまりの突然のことにとまどっているのだろうか。二人の表情は決して思わしくなかった。衝撃と迷いに心を揺らしているのか。
 僕もその二つに実はとまどっている。
 歩が陣痛を起こすことはまだ先の事だと思っていたけれど、同時にいつ起きてもおかしくないとも思っていた。だけど、後者に関してはそんなことはないだろうと軽く考えていた。
 そんな矢先で、実際に歩に襲った陣痛。
 こうして、歩が今でもその痛みに苦しんでいるのだと思うと、ここで二人の返事を待っているのが段々と我慢ができなくなってきた。
「どうします? 一緒に来てくれますか?」
 僕はできるだけ優しい口調で二人に答えを催促した。
 すると、二人はゆっくりとお互いの顔を見ながら少し頷いて、
「行くわ。ハヤテ君」
「何か西沢さんの力になれるかもしれないからな」
「早く行きましょう。事情は私がお姉ちゃんに連絡しておくから」
「ありがとうございます。ヒナギクさん、千桜さん。それでは一緒に白皇病院に行きましょう!」
 僕は教室を出る前に泉さんと愛歌さんに歩のことを軽く説明した。これで、先生方も僕たちがいない事情を分かってくれるはずだ。
 昼休みが始まって数分が経ち、僕たちは白皇学院を飛び出した。お嬢様の話から考えると、歩が陣痛を起こしてから一時間弱くらいだろう。
 僕らは歩の待っている白皇病院に向かうのであった。


 午後一時六分。白皇病院。
 僕とヒナギクさん千桜さんはロビーに入るやいなや、受付で分娩室の場所を訊くと、受付の女性が救急車の存在を覚えていたらしい。
 その救急車に乗っていた人の特徴を訊くと、ストレッチャーで運ばれていた人よりも一緒についてきた人の方で鮮明に覚えていたらしい。僕はその人はメイド服を着ていて、もう一人は金髪の女の子ではないかと言うと、受付の女性はその通りだと言った。
 間違いない、歩とお嬢様とマリアさんだ。
 僕たちが友人であることを告げると、受付の女性は快く分娩室の場所を案内してくれた。そして、その分娩室の前では私服姿のお嬢様が立っていた。
「ハヤテ! それに、ヒナギクと千桜もよく来てくれたな」
「お嬢様、歩の容体はどうですか?」
「ああ、白皇病院に来たら直でこの分娩室に来たのだが……まだ、出産の体制には臨んでいない。十分おきに陣痛が来るって感じでな……」
「そうですか……」
「今はマリアとついさっき七瀬先生が分娩室の中に入った。あと、産婦人科にいる看護師が歩のそばについている」
 やはり、状況が状況なのかお嬢様の表情もいつになく真剣だ。いや、真剣な表情を見たことはあるけれど、この類の表情は初めてだった。
「お嬢様、僕も中に入ってもいいでしょうか?」
「ああ、歩を元気づけてやれ」
「ありがとうございます」
 僕がお嬢様に軽く頭を下げたときだった。
「うっ、あああっ……!」
 ここまで聞こえてくる歩の悲鳴。
 きっと、陣痛が起こったことによる痛烈な痛みが歩を襲っているんだ。僕は分娩室の扉を開かないわけがなかった。
 扉を勢いよく開けて、分娩室の中を見る。
「綾崎さん……早かったですね」
 白衣を身にまとった七瀬先生が穏やかな口調で言った。
 分娩台に歩が苦しそうな表情で横たわっていた。その側にはマリアさんと産婦人科に属する女性の看護師が一人いた。
「ハヤテ君、西沢さんは何分かおきに陣痛がきています」
「お嬢様から聞きました。アパートで陣痛が起こり、その後に破水があったので救急車でここに来たと」
「ええ、その時から一時間以上この状態が続いて……」
 歩は陣痛によって体力が少しずつ失われているのか、その表情に力がないように思える。僕は七瀬先生に訊いた。
「歩の手を握っていてもいいですか?」
「もちろんいいですよ。これから出産の体制に入る予定です。長時間となれば体力も気力も相当失われると思いますので、少しでも側にいて元気づけてください」
「ありがとうございます」
「一応、西沢さんは自然出産……母体に危険が伴う可能性が出たときには、すぐに帝王切開の準備をしたいと思います」
「はい」
 この空気の中でも、七瀬先生は爽やかな笑みを浮かべる。七瀬先生は歩の側によって、
「綾崎さんが来ましたよ」
「ハヤテ君、が……?」
「あと、お友達も来てくれたみたいですよ」
「そう、ですか……うっ!」
 歩の顔に一瞬の笑みが浮かんだが、すぐにかき消される。歩の陣痛は刻々に間隔が狭まっているようだ。
 僕は苦しんでいる歩の左手を両手で力強く握りしめた。
「歩! 僕がここにいますから、頑張ってください!」
「ハヤテ君……」
「ヒナギクさんと千桜さんも来てくれたんですよ」
 僕の言葉を聞いて、ヒナギクさんと千桜さんは分娩室の中に入る。お嬢様も分娩室の中に入り、扉は閉まる。
「歩、頑張って。何か私たちにできることがあれば何でも言って」
「ああ、私たちはそのつもりだ」
「ヒナさん……千桜さん……」
 歩の額から汗がにじみ出ている。呼吸も荒くなっている。
 そして、必死に笑顔を作っている。
 握りしめているこの手で、歩の感じている痛みが僕に来ればいいのにと思う。僕には想像できない苦しみが歩を取り囲んでいるはずなのに、今の歩はとても強いとしか言いようがなかった。なぜなら、
「だったら、学校に戻って授業を受けてきて……」
 という、考えもしていなかった一言が出たから。
「えっ?」
 ヒナギクさんと千桜さんの声が揃った。あまりに意外な一言に、二人はお互いの顔を見合ってしまう。
 僕もその言葉に驚いた。一瞬、歩の握る手の力が失った。
「歩。今、なんて……?」
 ヒナギクさんがゆっくりと歩に訊いてみると、歩はその笑みのまま、
「私なんかのことで、二人の大切な勉強の時間……無駄にしちゃいけないよ」
「そんなこと言わないで! 歩は私の大切な友達なのよ? そんな人が苦しんでいるのに、勉強とかどうとか言っている場合じゃないでしょ!」
「それは嬉しいよ……でもね、私は大丈夫だから」
「歩……」
「ハヤテ君とナギちゃんとマリアさんがいれば、私は大丈夫だから。ヒナさんと千桜さんは授業を受けてきて」
 陣痛が少し治まっているのか、歩の言葉の一音一音がしっかりとしてきた。
 ヒナギクさんは今にも泣きそうだった。それは、悲しみとかそういうものではなくて、何かに不満である気持ち。
 それを横から千桜さんが穏やかな表情でヒナギクさんの肩に手を乗せて、
「分かったよ、西沢さん。ヒナと私は授業を受けてくる」
「うん、そうして」
「でも、授業が終わったらまたここに来る。その時は泉たちも一緒に。そして、歩が子供を出産するまで病院にいる。それが交換条件だ。それでいいか?」
 千桜さんの交換条件に歩はゆっくりと頷いた。
 それに千桜さんは軽く微笑んで、
「ヒナ、学校に戻ろう。綾崎君たちがついているから大丈夫だって」
「……う、うん」
「何かあったら私かヒナの携帯に連絡してくれ。その時はまたすぐに来る」
「分かりました、千桜さん」
「西沢さん。頑張って」
 ヒナギクさんと千桜さんはゆっくりと分娩室から出て行った。
――しかし、歩はどうしてそういうことを言ったのだろう。
 僕には分からなかった。普通だったら、誰かが側にいて欲しいはずなのに。僕だけがいれば、それでいいのだろうか?
 握りしめる手を額に当てて、ゆっくりと目を閉じる。
「私はね、ハヤテ君さえここにいてくれればいいんだよ」
「えっ?」
「……ヒナさんや千桜さんには、私の苦しんでいる姿を見せたくなかったんだ。それに、こんな姿を見たらこの先、子供を持つことに不安を持っちゃうでしょ?」
「歩……」
「でも、二人は私がどんな状況に立っても側にいたいっていうのは分かっていたけれどなぁ……」
 僕は目を開いて、歩の顔を見ると再び歩の表情に異変。
 陣痛が再び襲ってきたのだ。
「うううっ、痛いよぉ……」
「歩、頑張ってください!」
「うん、ハヤテ君がいれば……きっとね、頑張れる気がするよ……」
 その言葉を象徴するかのように、歩が僕の手をぎゅっと掴み返してきた。少し痛いけれど、この何十倍何百倍の痛みを歩は感じているんだ。
 僕は震えるほどに歩の手を握りしめる。何があっても歩から離れないように。
「歩、頑張るんだぞ!」
「ナギちゃん……」
「お、お前の苦しんでる顔なんて見たくないのだ……だから、頑張って赤ちゃんを産んでくれ……」
「うん。でもね、苦しくなったら、少し外に出てみるといいかもしれないよ」
「分かっているさ……」
 お嬢様もこの状況にかなり心が揺らいでいるようだ。
 身近な人の出産。それは、誰もが落ち着いていられるわけがなかった。一番落ち着いているのは、歩本人なのかもしれない。
「マリアさんもたまには外で気分転換してください。新鮮な空気を吸うだけでも、きっと大分楽になれると思いますから」
「ええ、分かっていますよ。ハヤテ君」
「あと、お嬢様に何か起きたときにも、ね」
「そうですね」
「わ、私は大丈夫なのだ! それよりも歩のことが第一だ!」
 こんな場だからかもしれない。
 お嬢様は断固として、誰にも弱いところを見せたくないのだろう。脚が震えているけれど。お嬢様なりの歩への優しさなのかも。
「これからは長い戦いになりますね。綾崎さん達もそれだけは覚悟しておいてください。長ければ日をまたぐこともありますから」
「それだけ自然出産は厳しいものだということですか」
「ええ、“命がけ”と言っても過言ではありませんからね。まずは陣痛の間隔が狭まり、破水が再び起きたら出産の体制に移りましょう」
「はい」
「私もここにいたいのですが、午後にも外来の患者さんの診察をしなければいけません。でも、助産師の方が来てくれるので大丈夫です。何かあったら、私に連絡をしてください」
 七瀬先生の気持ちは分かるけど、やはり医者という仕事をしなければいけないから、外来の診察をしないわけにはいかないもんな。
 軽く会釈をして、七瀬先生は分娩室を出て行った。
「歩、何かしてほしいことがあれば何でも言ってくださいね」
「う、うん……分かった……」
 歩の手をゆっくりと離すと、
「だめっ、もうちょっとだけ……握ってて」
「はい」
 あれだけ他の人に気を使っていても、本当は不安なのかもしれない。歩の不安を少しでも取り除けるのなら、手を握っていよう。
 そして、それから約三時間。
 歩には繰り返し続く陣痛が襲った。その度に、歩は痛そうな表情をして……少しでも痛みを和らげるために、声を出せるときは出した。
 時々、歩は意識を失いかけそうになる。だけど、僕やお嬢様の必死に呼び掛けで歩は何とか持ちこたえる。
 お嬢様もこの状況に耐え続け、ほとんど分娩室の外に出なかった。歩と一緒にこの状況を乗り切ると決めたらしい。
 マリアさんは歩の身体から出てくる汗を拭き、歩が水を欲しがったときに優しく水を飲ませている。さすがはマリアさんと言ったところ、どんなときにも優しい表情を絶やさずにこなしている。
 対して僕は、ずっと手を握りしめ……歩に話しかけていた。お嬢様とマリアさんの言葉で、僕は歩の側にいることに徹することにした。
「ハヤテ君……痛いよぉ」
「歩、痛いときは僕の手を思い切り握りしめてください。そうすれば、僕にもその痛みは伝わってきますから……」
 言葉を掛けることしかできないことに、悔しさを覚える。
 歩に早くこの状況を終わらせてくれるか、僕に歩の痛みを分けてくれるか。神様にお願いできるなら、その二つのどちらかを叶えてほしい。
 そう思うほど、今の状況が長かった。


 午後五時過ぎになって、破水が起きた。七瀬先生が午後の診察を終えて分娩室に来た直後のことだった。
 同時に、ヒナギクさんや千桜さん達が学校の授業を終え、生徒会の仕事を終えて病院に来てくれた時でもあった。
「破水が起きましたね。陣痛が起こる時間の間隔は?」
「数分に一回という頻度になりました」
「……分かりました。それでは、そろそろ出産の体制に入りたいと思います。これからですよ、西沢さん」
 この三時間の間に病院着に着替えた歩が、ゆっくりと頷く。
「それでは、これからラマーズ法を行いたいと思います」
「ラマーズ法……ですか」
 僕はそう呟いた。
 ラマーズ法……出産の本で調べたけれど、こういう自然出産の時にできるだけ肉体的にも精神的にも負荷を軽くするために生まれた方法だ。
 いわゆる「ヒッ・ヒッ・フー」の呼吸法だ。ついに、その状況まで来たのか。
「西沢さん、ラマーズ法は分かりますか?」
「は……はい……」
「それでは、ゆっくりとやりましょうね」
 そして、「ヒッ・ヒッ・フー」と七瀬先生はかけ声を掛ける。
 それに歩は呼吸を徐々に合わせる。僕とお嬢様がラマーズ法のかけ声を一緒にしていく。歩も小さいながらも声に出す。
 その声につられたのか、ヒナギクさんと千桜さん、泉さん、アーたんも分娩室の中に入ってきた。そして、ラマーズ法のかけ声を一緒にする。
 分娩室ではラマーズ法の大合唱が巻き起こっていた。
 効果が現れているのか、歩は極端に苦しい表情を浮かべることはなかった。このままいけば、出産まで行けるか……僕たちはそう思っていた。
 けれど、それは甘かった。
 ラマーズ法をずっと続けるわけにもいかず、それから二時間ほど経ったが……大きな進展は見られない。
「七瀬先生……どうすれば?」
「そうですね……西沢さん、まだ頑張れますか?」
「は、はい……まだ頑張れます」
 七瀬先生の問いに歩はまだしっかりとした口調で答える。
「今の返事から考えると、まだ自然分娩を行っても可能です。しかし、体力をあまりに失ってしまっては西沢さんには病気がありますし……日をまたいだら、帝王切開も考えていきましょう」
「分かりました」
 この自然出産のタイムリミットは午前零時まで。
 今の時間が午後七時過ぎだから、あと五時間弱といったところか。昼に先生が言ったとおり、長い戦いになることは間違いないな。既に七時間くらい歩は陣痛などの痛みと闘ってきているから。
「歩、焦らなくてもいいんですよ。ゆっくりと頑張りましょう」
「う、うん……」
「僕たちがずっとここにいますから」
「……少しだけ元気が出たかな」
 歩は軽く微笑んだ。
 それが分娩室の中にいる全員に伝わる。自然と、その笑顔に僕たちが元気をもらっている気がする。
――強いからこそ、それができる。
 歩を見る度に僕はそう思う。本当に強いよ、歩は。
「歩、まだまだ長くなるかもしれませんけど……頑張りましょう」
「うん、そうだね……」
「そうだ、歩ならやれる! だって、今までも頑張ってきたではないか!」
 お嬢様の言葉は非常に歩にとって背中を押してくれる言葉だったらしい。歩の目が変わったような気がする。
 ほんの少しではあるけれど、静かな灯火が生まれたような。
 そして、再びラマーズ法での分娩が始まった。


 時間だけが刻々と過ぎていく。


 ラマーズ法での呼吸法を何度か繰り返して、子供が出てくるところまでにはなったが、そこから前に進むことがなかなかできない。
 七瀬先生の話だと、陣痛の痛みも相当らしいが赤ちゃんが母親から出てくるときには、その痛みさえ比べものにならない痛みらしい。
 ある人はライオンに噛みちぎられるくらいに。
 ある人は両側から身体を引き裂かれるくらいに。
 だけど、どちらの人も次の言葉は同じだった。
――自分さえ助かればいいと思わないと赤ちゃんは産まれない。
 その位の痛みが歩を襲いかかろうとしていた。
「歩、頑張ってください……!」
「ハヤテ君……痛いよ……! もう、我慢できないよ……!」
 歩もその域に入ったらしい。
 時刻は午後十一時を回っていた。出産体制に入ってから約六時間。陣痛を破水というサイクルを繰り返したまま、ようやくここまでたどり着いた。
 しかし、七瀬先生の言ったリミットまであと一時間。その時間が過ぎると、歩の身体の危険が膨らむ一途を辿っていく。
 そのためにも、早く子供が顔を出して欲しい。一秒でも早く。
「西沢さん、ここが一番の踏ん張りどころですよ! 赤ちゃんの頭ももうすぐ出そうですし、呼吸を整えてラマーズ法をしましょう!」
「……は、はい……!」
 七瀬先生の言葉に歩は精一杯に答える。
 分娩室の中の雰囲気がそろそろ結末へと向かおうとしていた。
 僕は歩の左手をずっと握り続け、マリアさんは助産師さんと共に歩に言葉を掛ける。ヒナギクさん、千桜さん、泉さん、アーたんはただ……出産を願っているのか両手を握って僕たちのことを無言で見続けていた。
 歩は呼吸を整え、七瀬先生の声を頼りにラマーズ法の呼吸を始める。
 そして、歩に最大の痛みが襲う。
「あああっ!! ハヤテ君……!」
 その時に叫ぶ悲鳴には必ず僕の名前が入っていた。
 だからこそ、僕は信じられないほどの強さで握る歩の手を……僕は決して離さなかった。むしろ、強く握りしめる。
「赤ちゃんの頭が出始めましたよ! 西沢さん!」
 七瀬先生もいつになく大きな声を上げた。
 その言葉にヒナギクさん、千桜さん、泉さんが、
「歩! もう少しだから頑張って!」
「あと少しで赤ちゃんに会えるんだ!」
「歩ちゃん、頑張って!」
「あともう少しですわ!」
 歩の叫びにも負けない大きな声が分娩室内に響き渡る。歩は三人の方を見ると、少しだけ頭を縦に振り、
「う……ん……・!」
 呼吸の荒い中でかすれた声を出した。
――歩は今、何を想っているのだろう。
 信じられないほどの痛みからくる苦しみか。
 みんなからの応援から来た勇気か。
 それとも、早く赤ちゃんに会いたい一心なのか。
 はたまた、自分だけでもいいから痛みから解放されたいのか。
――悔しいけれど、全部僕の身体では感じられない。
 だけど、言えるのはこの状況を闘っているのは歩だけではない。お嬢様、マリアさん、ヒナギクさん、千桜さん、泉さん、アーたん、七瀬先生。そして、僕も。
 目指している場所はみんな同じなんだ。
 だからこそ、歩。
「歩、みんながついています! あと少しですから、頑張ってください!」
「……う、うん!」
 歩の表情が少し明るくなった。
 今一度、歩は全身に力を込める。それは、僕の両手に来る痛みで分かる。そうだ、歩はこんなに強いんだから、ここで負けないわけがない!
 僕は祈った。


――どうか、歩に僕たちの子供と会わせてください。


 そして、午後十一時四十八分。


「おぎゃあっ!」


――僕たちの聞き覚えのない声が分娩室内に響き渡った。


 僕はその声の主の方に視線を向けると、
「西沢さん! 元気な女の子が産まれましたよ!」
 七瀬先生が爽やかな笑顔で歩にそう言った。
 助産婦さんが白い柔らかめの布に、小さな僕たちの子供がくるまっていた。顔が見えるけど、本当に赤ちゃんだ。顔が赤い。
「歩! よく頑張りましたね……!」
「ハヤテ君……もう、泣かないでよ。私、死んじゃった訳じゃないんだよ……?」
「すみません。で、でも……歩、よく頑張りましたよ」
「七瀬先生。女の子というのは本当ですか?」
 痛みからようやく解放されたのか、歩の表情は穏やかだ。静かに歩は七瀬先生に訊くと、七瀬先生は穏やかな表情で、
「ええ、可愛らしい女の子ですよ。よく頑張りましたね」
「ありがとうございます」
「まずは綾崎さんがお子さんを抱いてみますか?」
「えっ、ぼ、僕が抱いていいのでしょうか?」
「当たり前ですよ。綾崎さんはこの子のお父さんになったわけですし」
 そうだ、僕は今目の前にいる赤ちゃんが生まれた瞬間……一人の父親になったんだ。そして、歩は母親になった。
 僕は今までそんな風に感じていなかったけれど、急に歩との子供を見ると……何だか新鮮な気持ちになる。
「ハヤテ君。いいよ、私たちの子を抱いてあげて」
 歩は優しく僕に言った。助産師さんが抱いていた赤ちゃんを僕にそっと渡す。ああ、何だかほんのり温かくて思っていたよりも全然軽いな。
「初めまして、君のお父さんですよ。ああ、可愛いですね。将来は歩そっくりに育ったりするんでしょうか」
「そうなるかなぁ……?」
「母親に似るといいですね。それにしても可愛いですね」
 僕は分娩台の側にあったいすに座って、歩に我が子の顔を見せる。歩にとって、これが初対面だ。
「うわぁ、ちっちゃくて可愛いね」
「歩が長い間痛いのを乗り越えたから会えたんですよ」
「うん……何だかこうして会えると、やっぱり子供っていいね。できた時はどうしようって思ったけど、ここまできて良かったなって思えるよ……」
「歩……ありがとう」
「ハヤテ君も手を握ってくれてありがとう」
 初めて三人囲んで家族の会話をした。これから、この感じを味わえるのだと思えると何だか嬉しくてたまらない。
 そして、分娩室に、
「出産おめでとう、歩。そして、綾崎君」
 後ろを振り返ると歩のお父様が立っていた。スーツを着ているところを見ると、仕事先から直接来たのだろうか。
「お父さん……」
「綾崎君が今抱いているのが二人の子供なのか。そして、私にとっては孫か」
「仕事先から来てくださったんですか? スーツを着ているので」
「ああ、そうだ。どうしてもやらなければならない仕事があって。君たちがいるから大丈夫だと思って、終わらせてから来たんだが……何だか、若い人たちの中に入るのは悪いと思って、二時間近く分娩室の外で待っていたよ」
「そうですか、ありがとうございます」
「それは私の台詞だ。本当に歩とその娘のためにずっと側についてくれてありがとう。それは、ここにいる皆さんに言わなければならないことだ。西沢歩の父親として言います。本当に皆さん、ありがとうございました」
 歩のお父様は深く頭を下げた。そして、頭を上げて我が子を見ると優しく微笑んだ。
「可愛い子だね」
「歩似だとは思いませんか?」
「それは少しずつ成長してから分かることだな。それじゃ、家で妻と一樹が報告を待っているから、私は帰るとするよ。後は若い方達だけで。失礼します」
 西沢さんのお父様は軽く会釈をして分娩室を出て行った。
 嬉しそうだったな、やっぱり。
 そして、お嬢様とヒナギクさんが歩の側に寄ってくる。
「歩! よく頑張ったな!」
「本当によく頑張ったわね。赤ちゃんが出てきたとき、私、泣きそうになったわ」
「ヒナさん、もう泣いてるじゃないですか」
「えっ?」
 ヒナギクさん、気づかない間に涙をこぼしていたみたいだな。目元が赤くて、今も目に涙が浮かんでいる。
「これはただ……でも、泣いてるのかもしれないわね」
「ナギちゃんもありがとう」
「べ、別に私は……お、お前のことを見守ることしかしてないから、た、大したことなんてしてないぞ」
「うううん、それだけでも十分だよ。ナギちゃんにヒナさん、マリアさん、千桜さん、アリスちゃん、泉ちゃん、七瀬先生。そして、ハヤテ君。みんながいてくれたからこそ、子のことで会えたんだよ。ありがとう」
 歩はこの場にいる全員に感謝を伝えた。誰もが笑顔で返した。
 それは、僕も同じだ。ここにいる人がいるからこそ、歩は出産するまで力を失うことなく、ここまでたどり着くことができたんだ。
「そういえば、千桜。あれは持ってきたのか?」
「ああ、持ってきたよ」
「何を持ってきたんですか?」
「すまないな、綾崎君。西沢さん。ナギがデジカメを持ってこいって言ってくるからさ。勝手に部屋に入ってしまった」
「お嬢様、デジカメなんて持ってきてどうするんですか?」
「決まっているではないか。出産記念にハヤテと歩と二人の子のスリーショットを撮ろうと考えていたのだっ!」
 と、腰に手を当てて胸を張ってお嬢様は言った。すっかりと元の感じに戻ったな。
 しかし、お嬢様の考えたことは素敵なことだ。
「せっかくだから撮ってもらおうよ、ハヤテ君」
「そうですね」
 どうやら、歩も同じことを思っていたらしい。笑顔で答えた。
 千桜さんはお嬢様に歩のデジカメを渡して、
「よし、今から撮るから三人以外は少し離れるのだ。それで、ハヤテは赤ちゃんを抱いたまま歩に身体を寄せるのだ」
「ハヤテ君、私がちょっと寄るから大丈夫だよ」
「分かりました」
 僕は歩と寄り添って、お嬢様の持つデジカメのアングルが僕たちに向けられる。その後ろには笑顔で見守るみんながいた。
「何だか緊張するね、ハヤテ君」
「そうですね。ここまで多くの人に見守られると逆に……」
「おい、そんなに表情を堅くするな。せっかくの記念写真が台無しになるではないか」
「もう、そういうことを言うともっと台無しになるんじゃないかな」
「歩、僕たちだけがいると思えば大丈夫ですって」
「ハヤテ君……」
「歩、産んでくれてありがとうございます」
 僕は歩に軽く口づけをした。すると、歩の表情はまるであの時と同じように……赤くなって、いかにも幸せな表情に変わる。
「歩、そこで少し微笑めば最高ですよ」
「うん、ありがと」
 僕はお嬢様の方を向いて軽く頷くと、お嬢様はデジカメのシャッターボタンを一回押した。
 カシャッ、という音が鳴り無事に撮ることができた。
「おお、なかなかいいではないか」
 僕はお嬢様からデジカメを渡して今の撮影した写真を見る。たしかに、これは良い写真だ。記念写真と言える立派な写真だと思う。
「へえ、ナギちゃん上手だね」
「べ、別にこのくらいのことは当然だろう。まあ、ハヤテ……歩。改めて出産おめでとう!」
「ナギちゃん、顔が赤くなってるよ」
「た、ただここが蒸し暑いだけだ! まったく、これだから梅雨の季節は嫌いなのだっ!」
「そっかそっか。私はこれからこの季節が好きになりそうだよ」
 この二人は相変わらずか。でも、こういうのは仲の良い証拠ってことなのかな。仲が良いのはいいけれど、娘にはお嬢様と喧嘩ばかりしてほしくはないな。
 色々と考えるとこの子の将来が楽しみになってくる。近い将来も遠い将来も。
「それでは、もう少ししたら産婦人科の病室に移りましょうか。もちろん、産まれてきたお子さんと一緒に」
「はい、分かりました」
「あっ、でも……今夜だけは新生児用の部屋に。一応、西沢さんは病気に罹っていますし、少し検査をしたいと思いますので」
「そうですね。では、お願いします」
 僕は助産師さんに娘を渡した。専用の台に乗せられて、分娩室を出て行った。歩はそれを小さく手を振って見送った。
「歩、次は歩の病気を治す番ですよ」
「そうだね。私のわがままの所為で何も治療……してこなかったもんね」
「でも、そのおかげで……僕たちの子供と会えたんですから、これからゆっくりと直していけばいいんですよ」
「う、うん……」
 不思議と歩の表情が明るくなかった。
 でも、そうだ。これから歩は治療に専念して……そのためにも、僕が頑張って娘のことをしっかりとやらなければ。
 不思議とそれをすることに自信があった。ナギお嬢様の執事をやっているからなのかな? いや、子育ては執事とは全く違うだろうな。きっと、お嬢様以上に大変な気がする。
「何だか、誰かに変なことを言われていた気がしたが……」
「何でもありませんよ」
「だったらいいのだが」
「それにしても、お嬢様はよく頑張ってここにずっといましたね」
「あ、当たり前だろうが! 歩が必死に頑張っていたのに、その横でゲームをやりたいから帰りたいとか言えないだろ! べ、別に思ってないけどな!」
「お嬢様も成長しましたね」
「成長したね、ナギちゃん」
 七瀬先生以外の全員が僕と歩の言うことに頷いた。しかも、妙に納得しているように頷いている。
「お前らは私のことを今までどういう眼で見てきたのだっ!!」
「お嬢様、深夜なので大きな声を出してはいけませんよ」
「うっ、そ、それはすまない」
「ええと、どうやら病室の用意ができたようで今から移動しましょう。西沢さん、車いすに乗っても大丈夫そうですか?」
「はい、大丈夫です」
「それでは、ご案内しますね」
 そして、僕たちは分娩室を後にした。
 歩は産婦人科の病室に一週間入院することになる。産後の病気の検査をするようだ。僕たちは歩の入院する病室へ移動した。


 移動して二時間ほど経った頃だった。
「ハヤテ君、今日は昼頃からずっと歩の側についていたから……外の空気を吸ってきた方が良いんじゃない? きっと、夜だから空気も爽やかでいいかもしれないわよ」
 ヒナギクさんの気遣いに僕は快く頷いた。
「そうですね。それでは、ちょっと外の空気を吸ってきますね」
「ああ、その方が良いな。ゆっくりと休んでこい、ハヤテ」
「ありがとうございます、お嬢様」
 僕は歩をみんなに任せて、外の空気を吸いに行くことにした。まあ、泉さんやアーたんは外のパブリックスペースのソファーで寝ているけれど。今日だけは七瀬先生のおかげで許可が取れた。
 僕は誰も起こさないように、ゆっくりと病院の外に出た。
「うわあ、綺麗だな……」
 夜空に雲が広がっていたけれど、少し遠くに見える都心部の高層ビル街の灯りがまだまだ点いている。午前二時台でもやっているところはあるんだな。
「たしかにヒナギクさんの言うとおり、空気が爽やかだ……」
 六月でもこの時間なら、空気も少し涼しくて爽やかだ。
 分娩室でのあの独特の空気に慣れてしまった所為か、今吸っているこの空気が少し異質な物のように感じられる。
「しかし、本当に良かった……産まれてきてくれて」
 十二時間以上、歩は信じられない痛みに襲われた。時々、ダメかもしれないと思ったけど、歩は無事に乗り切ってくれた。
「本当に強いよ、歩は」
 僕は遠くに見える広い景色を見ながら色々な事を考えた。


 産まれてきた娘の名前は何にしようか。
 結婚式はいつ、どこで行おうか。
 二人目を作るとしたら、今から何年後にしようか。
 最終的には家族をどこまで増やしていこうか。


 それ以外にも僕にはたくさんの夢がある。
 全ては歩との夢。
 近い将来での夢も遠い将来の夢も、皆、歩との夢だ。
 そして、ついさっき。最初で最大の夢が果たせたんだ。歩との子供が産まれて、三人で微笑み会おうという夢が。
「僕も頑張っていかなきゃな」
 夜空を見上げて、僕は一人……心に固い決意をした。


――だけど。


「ハヤテ君!」
「ヒナギクさん?」
 振り返ると、ヒナギクさんが凄く焦っているように……息を切らしながら僕の所まで走ってきた。
「どうしたんですか。そんな息を切らして……」
「歩が……」
「歩が?」
 そして、次の瞬間。
 僕は目の前の真実を知らされるにすることになる。


「歩の容体が急変したの。すぐに来て!」


 たくさんの夢を抱えて見上げた空からは、雨が降り出していた。
 その雨が僕の身体を濡らし、寒気をよぎらせる。


 僕は誰かに残酷な現実に引き戻された気がした。


――一つの命の火が灯ると同時に、一つの命の火が消えかかろうとしていた。



vol.12に続く。息を切らしながらも訴える歩の叶えたい夢とは。
そして、ついにその時が訪れる。
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