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カノン

~SELL 7 決断~


――人は未来に何を望むのだろう?


 翌日、一月十日。
 白皇学院は三学期二日目からさっそく授業が開始された。午後までみっちり授業を受けて、僕とヒナギクさんは白皇病院に向かうことにした。
 白皇病院は白皇学院からほど近い。下手したら、教室から校門までの距離よりも校門から白皇病院までの距離の方が短いかもしれない。
 昼休みの時間を使って会いに行けるほどの近さだった。
「さすがは白皇学院の系列の病院ね。すごく近いわ」
「ええ、これなら昼休みにでも会いに行けば良かったですね」
「これなら、七瀬先生が私のことを知っているわけだわ」
「そうですね」
 病院のフロントに行くと、白皇学院の制服を着ている学生が見られる。今の季節、インフルエンザなどの感染症が流行っているし、白皇学院の生徒ならば治療費も安くなるし……そういう理由からだろう。
「あっ、こんにちは。会長」
「こんにちは」
 そして、もちろん学院中に知れ渡っているヒナギクさんは女子生徒に声を掛けられるなど、今一度、会長という風格を見せられた。
 対して僕はというと、何で会長の隣で歩いているんだ……というような、男子生徒からの痛い視線を浴びる結果となった。うらやましいのだろうか?
「さあ、早く歩の所に行きましょう」
「そうですね」
 僕とヒナギクさんは面会の受付を済ませると、歩のいる病室へと向かう。
 今日、ここに来た目的は他でもない。
 昨日、七瀬先生に言われた診察結果と……僕が一晩考えたことを、今から歩に伝えに行くためだ。きっと、歩は肺炎だと信じているから。本当のことは僕から伝えるべきだと思って。一日でも早いほうがいいと思って。
「歩、本当のことを知ったとき……どんな反応するかな」
 ヒナギクさんは汐らしく、僕に訊いてくる。たぶん、ヒナギクさんは分かっているんだろう。今の態度に表れている。
「……言ってみるまでは分かりませんよ」
 僕はそう返事をするしかなかった。
 歩のいる病室に近づいてくると、何やらクラシック音楽が聞こえてくる。どこかの病室でかけているのが漏れているのだろうか?
「この曲……どこかで聴いたことがあるわ」
「そういえば、僕も」
 ヒナギクさんも聞き覚えがあるということは、この曲は有名な曲なのだろう。僕は曲名を思い出しながら歩の病室の前まで行ってみると……。
「……」
「……ここね、音の発信源は」
「そうみたいですね」
 そこは、歩の病室だった。
 そして、同時に……曲名も分かった。歩の好きな曲で、あの日……僕が歩の家に泊まりに行ったときに部屋でかけてくれた曲。
 僕はノックをしてゆっくりと引き戸を開けた。
「あっ、ハヤテ君」
「昨日は来られなくてすみません」
「うううん、いいよ。ハヤテ君も忙しいだろうし」
 病室の中は何か独特な匂いがして。独特の蒸し暑さがあって。
 ただ、そんな雰囲気を吹き飛ばしてくれるのは……歩が持参したCDプレーヤーのスピーカーから聞こえてくるクラシック。
 爽やかな気分にしてくれる、パッヘルベルのカノンだった。歩はベッドの上で窓から見える景色を観ながら聴いていたようだ。
「歩、調子はどう?」
「うん、おかげさまで熱は下がったし……昨日、夕方に七瀬先生が来てね。検査をしたら……ただの肺炎だったんだって」
「そう、なのね……」
「だからこんなに長く咳が出てたんだね。良かった、大きな病気に罹ってなくて」
「う、うん……」
 ヒナギクさんは本当のことを知っているのか、笑顔で話す歩の言葉に……泣かずにはいられないんだろう。歩から顔を逸らしてしまう。
 僕も泣きたいくらいに、歩の言葉が胸に突き刺さる。これから話そうとすることを考えると、今の歩には……残酷すぎる。
「どうかしたのかな? ヒナさん……泣いているみたいですけど」
 歩もヒナギクさんの異変に気づいたのか、心配そうに声を掛ける。
 ヒナギクさんは僕が言う前に悟られまいと……必死に涙を拭って歩の方に顔を向ける。目元を少し赤くして、
「ごめんね。歩が元気になった姿が見られたから嬉しくて……」
「もう、泣いちゃうほどのことじゃないですよ」
――その笑顔がヒナギクさんにとっては辛いんだ。
 ヒナギクさんのためにも、早く僕が言ってしまった方が良いのだろうか。しかし、未だに言う勇気が出てこない。
 きっと、チキン野郎でなくてもそうなんだと思う。がんの告知なんて、どんな人間でも必ず脚が震えるほど緊張とかするはずだ。
「歩、この曲……パッヘルベルのカノンね」
「さすがですね、ヒナさん。この曲……私が一番好きなクラシック曲なんですよ」
「へえ、そうなの」
「いつか、この曲がかかっている中でハヤテ君と結婚式を挙げるのが私の夢なんです。って、私、何言っているんだろ……恥ずかしいな」
 えへへ、と歩は可愛らしく笑う。
 歩の夢は僕との結婚式なのか。しかも、この曲をかけてもらいながら。歩にとっても僕にとっても思い出深い曲だから。歩がそういうのも無理はない。
 それを聞いたヒナギクさんは再び泣き出してしまった。
「ヒ、ヒナさん! 今日は何だか泣いちゃう日なんですか!?」
「ただ、この曲に感動していただけよ。凄く綺麗で、凄く幸せになれそうで……きっと、歩の夢は幸せな夢なんだなって思うと、ね……」
「そ、そんな風に言われると……て、照れちゃいますよ」
 右手を頭の後ろに当てて、歩は頬を赤くして笑っている。本当に幸せそうに笑っている。僕はそれを見る度に、辛さが膨らむ一途を辿ることになる。
「ハヤテ君もそう思うよね?」
「え、ええ……もう、歩は気が早いんですね」
「ハヤテ君が十八歳になったらすぐに籍を入れて、お互いに高校を卒業したら……結婚式挙げようね。その時は赤ちゃんもいるんだよね……」
「そうですね、是非……そうしましょう」
 歩の夢は未来へとどんどん膨らんでいく。
 そして、それは嬉しいことに……僕が必ず含まれている。普通だったら、僕は笑って……それより先の未来について語り合うかもしれない。
――でも、これから話すことは未来を見えなくさせるんだ。
 それを知っている僕とヒナギクさんは、当然……嬉しい気持ちと同じくらいに、辛い気持ちも出てくる。
 僕はそれをこらえて、言う決心をつける。
「歩、大事な話があるんです」
「えっ? 何かな?」
「……今から話すことは歩にとって凄く重要な話なんです。先に言っておきます。検査結果は七瀬先生の言ったことだけじゃなかったんです」
「えっ?」
 歩は不思議そうな表情で僕を見つめてくる。
 辛い、非常に辛い。今から数秒後の歩の表情を……自然と僕を襲ってくる。でも、僕は言わなきゃいけない。
 大きく息を吐いて、僕は歩に言った。


「歩は乳がんにかかっているんですよ」


 ついに、言ってしまった。
 情けないかもしれないけど、僕はもう……涙を流してしまうかもしれない。人にこういうことを言わなきゃいけないのは、これで最後にして欲しい。
「……」
 部屋にはカノンの次のクラシック曲がかかっているだけだ。
 歩は一瞬目を見開いたが、特に泣くような雰囲気が見られない。ヒナギクさんの方が悲しくて、涙を流している。
 僕は歩から予想外の言葉を言われる。
「へえ、やっぱりそうだったんだね」
「やっぱり……?」
 つい、オウム返しのように訊き返してしまった。
 歩は悲しむどころか、そう言って……納得しているような感じに受け取れる。
「驚かないんですか? 乳がんだって聞いて……」
「驚いているけど、女の勘ってやつなのかな。胸に違和感があって、あの日……横になってたときに思ったんだ。この違和感って、まさか乳がんの所為なんじゃないかなって」
「歩はずっとそう考えていたんですか?」
「ずっとじゃなかったけど、もしあの違和感が気のせいじゃなかったら……って考えれば、大抵は乳がんだって疑うよ」
「そう、なんですか……」
「でも、乳がんって言っても……初期がんなんでしょ? 違和感がある程度だって感じるくらいだし。だったら余命とかは関係ないよね」
「そ、それは……」
 確かに、現段階だったら余命は関係ないかもしれない。
 でも、余命の可能性はゼロじゃない。僕はそれも伝えなければならない。よくよく考えると、乳がんよりもこっちの方が言うのは何倍も辛いことだ。
 僕は歩にゆっくり言う。
「いや、関係あります。現段階なら余命は関係ありませんが、歩は十七歳ですし……癌の進行が急激に早まる可能性もあって、最悪の場合は……余命も考えなければならないといけないみたいです」
「えっ……?」
 その時、初めて歩は真剣な表情を見せた。
 十七歳の少女が癌にかかって、余命も考えなければならない。さすがの歩も、この事実にはショックを受けているみたいだ。
「その時はどのくらい……生きられるの?」
 静かに歩は僕に訊いた。
 ここで嘘を言ってもしょうがない。正直に七瀬先生に言われたことを話そう。
「あと、半年から……一年くらいらしいです」
 もし、それが本当のことになってしまったら、僕と籍を入れることもできず、結婚式も挙げられなくなってしまう。
 そう、さっき歩が言ってくれた夢は全て叶わなくなってしまうんだ。
 僕は歩に未来を見えなくさせてしまった。
 きっと、歩は悲しむ。
 と、思いきや……再び予想外のことが起こった。歩は急に笑顔になった。そして、僕とヒナギクさんの顔を見て、


「じゃあ、お腹の中にいる赤ちゃんはちゃんと産めるんだね」


――どうして、そんな言葉が出てくるんだ?
 それが、その言葉に対する率直な感想、だ。
 僕とヒナギクさんは顔を見合わせたけど、ヒナギクさんも今の言葉に驚いているようで、何も言葉が出なかった。
「あ、あれ? どうかしたのかな?」
「どうかしたって……歩はショックじゃないの? 余命を宣告されたのよ……?」
 ヒナギクさんは歩の側まで歩み寄って、そう訊いた。
 そして、再び歩は笑って、
「でも、それも確実じゃないんですよね? それに、もしそれが確実だったとしても……ハヤテ君との子供が産めそうならそれでいいかなって」
「それでいいかな……って言えるような軽い話じゃないのよ」
「だって、私……母親としての仕事を果たしたいから」
「えっ……?」
「こういうことは言いたくないんですけど、きっと……ヒナさんには分からないことだと思います。子供ができて初めて持つ感情っていうか、そんな思いが私を包み込んでいる気がしているんですよ」
 きっと、その気持ちは……僕にも正確には分からないだろう。
 子供を身籠もった「母親」になる女性だからこそ思うことのできる、気持ち。その気持ちが歩をここまで強くしているのだろうか。
 ヒナギクさんもそれが分かったらしく、特に怒ることもせずに、
「そう、なのね」
 小さく呟いた。かろうじて僕にも聞こえるくらいの小さな声で。
 そして、僕は話し始める。
「歩。子供は中絶せずに治療できる療法があると、七瀬先生が言っていましたよ。少し辛いかもしれませんが、化学療法で……」
「ううん、私、治療はしないよ」
「えっ?」
「少なくとも、子供を産まれるまでは……絶対に治療するつもりはないから」
 さすがに今の言葉には、僕も反論したくなった。
 僕は歩のことを抱きしめる。
「僕は歩を……死なせたくないんですよ! 今の医療は進んでいますし、自分を取るか子供を取るか……その二者択一じゃないんですから。治療を受けなければそれこそ、二者択一の窮地に立たされるかもしれないんですよ!」
「ハヤテ君……」
「僕は歩に一日でも早く元気になって欲しいんです。子供だって、この先……お互いに欲しいと願ったらできるんですから……!」
 それが僕の必死の願いだった。
 たとえ、今の子供が産めない事態になったとしても……歩とのこの先の長い未来を考えれば、歩の命を優先させたいんだ。
 僕の言葉が少しでも響いたのだろうか。歩は少し困っているような表情を伺わせる。
「でも、ハヤテ君。私は元気な間はお腹にいる赤ちゃんをすくすくと成長させてあげたいの。だから、お願い……ハヤテ君、元気な間だけでいいから……あの部屋での日々を送りたいの」
「歩……」
「私は母親として、体力が持つ限りは普通に過ごしたい」
 ついに、その言葉が出たか。
――母親。
 歩の言っていることは我が儘なことだ。もしかしたら、自分の置かれている状況が全く分かっていないと言う人も出てくるかもしれない。
 でも、歩はその我が儘を……自分の為じゃなくて、あくまでも未来に生まれてくる「僕らの子供」の為に言っている。僕はもしかしたら、僕の思っている以上に歩はもう……立派な一人の女性なのかもしれない。


「話は全て聞かせてもらいました。綾崎さん、西沢さん」


 そんな爽やかな声と共に、七瀬先生が病室に入ってきた。
 相変わらずの優しく爽やかな雰囲気を身にまとって、髪を右手でかき分けていた。白衣を着ていなければ医者には見えないだろう。
「全て聞いていたということはどういうことですか?」
「いえいえ、綾崎さんと桂さんが西沢さんの病室に面会に来たということは、私の耳にも入ってきまして。それで、少しお伺いしようかと思ったら……ちょうど、綾崎さんが西沢さんにがんのご報告をされていましたから。切りが良くなるまでずっと廊下で待っていたんですよ」
「なるほど、それで一番入ってくるのにいいタイミングを見計らって入ってきたというわけですか」
「あははっ、私はそんな目立ちたがり屋ではありませんよ。私はただ、西沢さんにある誓約書を書いてもらおうと思いここに来たんですよ」
 少し皮肉めいたように七瀬先生に言ってみたが、全く動じず。さすがは大人とも言える落ち着いた態度で返された。しかも、更に爽やかな笑みが強くなった。
 七瀬先生の言う「誓約書」に歩が反応する。
「誓約書……ですか?」
「そうですよ」
 七瀬先生は左手に書類のようなA4サイズの用紙を一枚持っていた。それをベッドに付いているテーブルの上に置いた。
「どうやら、西沢さんは治療を望んでいないようですね。なので、そのための誓約書にサインをしてもらおうと思って」
「ど、どういうことですか七瀬先生。まるで、歩がこういうことを言うことを前から分かっていたように聞こえるんですが」
「ええ、そうですよ」
 七瀬先生は僕とヒナギクさんの顔を、そして歩の顔を見てゆっくりと微笑む。
「私が主治医として西沢さんと何度か診察や検査の時にお話をした際に、綾崎さんとのことやご友人のこと。そして、子供を産むことについても話してくれました」
「そうなんです、か……」
 確かに、七瀬先生のこの雰囲気の前では……自分の思っていることを言葉にして話せそうだしな。内科の医者だけれど、意外と精神科……でなくても、カウンセラーの仕事も兼任していそうな気がした。
「検査の結果が分かったとき、私も西沢さんに言おうか迷いましたが……西沢さんの将来、生まれてくる子供に対する思いの強さ。そして、綾崎さんや桂さんの存在。それを考えると、私ではなく綾崎さんから伝えてもらった方が良いと思いました」
「だから、昨日……僕とヒナギクさんだけに話してくれたんですか」
「ええ。それに、今後の治療方針がどうなろうと……西沢さんは決してその事実に屈することはないだろうと、個人的にではありますがそう確信していました。あまり、そう思ってはいけないんですけどね」
 いや、そう確信できた先生は……やはり、人に接して、多くの人の病気を治してきた専門家だからなんだ。これが、僕ら学生と大人の差なんだなと痛感した。
「先生、私のこと……分かっていてくれたんですね」
「もちろんですよ。不覚にもあなたには医者として情が入ってしまいまして。なので、この誓約書は公的では有効ではありませんが、いわば……主治医としての私と西沢さんとのお約束ごとを書いた書類ですね」
「なるほど……」
 歩は誓約書を手にとって真剣に読み始める。
「しかし、七瀬先生は西沢さんには情を入れていたんですね」
「ええ。昔、妻が乳がんを患ったことがありまして。きっかけが西沢さんと同じでした。お腹の中に私と子供がいたことも。今は、元気に調理師の仕事をしていますよ。彼女の作ったご飯が凄く美味しいんですよ」
「そうですか……良かったですね」
「す、すみません。つい、私のことを話してしまいまして。西沢さんを見ていると、あの時の妻と時々重なって見えるんです。当時は医学生の私は何も力になれなかった。でも、今は主治医。医者として彼女を支えられればと思いまして」
「七瀬先生は本当にいいお医者さんですね」
「そんなことはありませんよ。今、私がしていることは……正しいことなのか、間違っていることなのか。自分でもよく分かりませんし」
 しかし、そんな中でもこうして今いること。
 歩は本当にいいお医者さんに巡り会ったと思う。きっと、奥さんは幸せなんだろうなぁ……としみじみと思った。僕もこうならなければと奮い立たせる。
「でも、誓約書まで作るなんて……すごいですね」
「生徒会長さんに言われるとは、誠に光栄ですね。書類作りならば、生徒会長さんの方が得意でしょう?」
「いいえ、私のなんて学校内だけですから」
「あの規模の学校を一年生の時からまとめているなんて、私なんかと比べれば大物ですよ」
 しかし、ここまで爽やかに女性と話しているのを見ると何だか釈然としないな。まあ、大人の男性だし当然かと自分の中で割り切ってみる。
 七瀬先生は白衣の袖を肘の近くまで捲り上げていた。やはり、この部屋は暑いのか。
「さて、西沢さん……誓約書は読みましたか?」
「ええ、大体は」
「どんな内容が書かれているんですか?」
「簡単な内容ですよ。西沢さん、綾崎さんと桂さんにも見せてあげてください」
 僕は西沢さんから誓約書を受け取ると、そこには何故かゴシック体で書かれていた一連の内容だった。誓約書なので、やはり主な内容は約束事だ。
「週に一度、精密検査を受けること。何か身体に異変を感じた時はすぐに白皇病院に診察しに来ること。そして、私が検査や診察の結果、治療や入院、最悪の場合、人工中絶が必要となった場合には素直に病院側の指示を受け入れること。これだけです」
「先生……」
「西沢さん。今の体調なら、綾崎さんと一緒に暮らしても大丈夫ですよ。しかし、無理はいけません。綾崎さんは執事で家事も鍛え上げられているでしょうから、時にはたくさん甘えるくらいで頼りなさい」
「……はい」
 何だか、言っていることが父親のような気がしてならないが。
 しかし、七瀬先生に言われてはこれから歩のために……より一層頑張らなければならなくなるな。
「ということで、綾崎さん。西沢さんのことを守って上げてください」
「もちろんですよ」
「そして、桂さん。ご友人として、そして同じアパートに住む住人として……二人を支えて上げてください」
「分かりました」
「出産、そして乳がんの完治まで……一緒に頑張っていきましょう」
「はい、七瀬先生」
 歩の返事に七瀬先生は微笑む。
 先生はサインペンをテーブルの上に置いて、歩はそのサインペンで誓約書の署名欄に自分の名前を書いた。
「はい、確かに受け取りました。それでは、失礼します」
「ありがとうございました」
「そういえば、あと二、三日もすれば退院できるので……またその時にお会いしましょう」
「はい!」
 思わず、僕が大声で返事をしてしまった。
 それには歩もヒナギクさんも大笑いだったが……その言葉を聞いた瞬間、僕は心の底から嬉しかった。声に出したいくらいに嬉しかった。
「まったく、ハヤテ君は大げさだなあ」
「ごめんなさい。つい、嬉しさのあまりに……」
「まあ、私も嬉しいけどね。三週間ぐらい家に帰れなかったからね。急に退院できると分かると急に帰りたくなってきたよ」
「歩……」
「家に帰ったら、ハヤテ君と一緒に寝るんだ。ね、それでもいいでしょ?」
「いいですよ、もちろん」
 また、こうやって歩と話せる日が来て僕は嬉しい。
 僕と歩のそんな会話を横で聞いていたヒナギクさんは、くすっと笑って、
「まったく、仲の良い会話してくれちゃって……私はお邪魔だったかしら?」
「全然そんなことないですよ! だって、私たち……同じ屋根の下で暮らしているじゃないですか。ヒナさんも、ナギちゃんも、マリアさんも、千桜さんも、アリスちゃんも」
「……そうね」
「だから、全然邪魔じゃないです。むしろ、一緒にいたいくらい。あっ、何だったらいつか、この三人で一緒に寝ませんか?」
「そ、それはできないわよ!」
 たしかに、それはあまりしない方がいいのでは。もちろん、ヒナギクさんの精神的に。
 しかし、同じ屋根の下で住む人同士か。そう考えると、ムラサキノヤカタに住んでいる人全員が一つの家族ってことになるかもしれないな。
 そして、その後暫く……歩の病室は笑いに包まれるのであった。


 この日から三日後、歩は無事に退院した。


――母親として。歩は本当に強い女性だったと僕は今でも思う。



vol.9に続く。次回はあのアイドルのコンサート。
初披露される曲の歌詞に注目(しなくていいです)。
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