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カノン
~SELL 6 宣告~


――十七歳の僕にとって、その言葉は重すぎた。


 一月九日。
 今日は白皇学院、三学期の始業式の日であり午前中で終わった僕、お嬢様、ヒナギクさん、千桜さんはムラサキノヤカタに帰ってきた。
 僕は部屋に戻ると、電話には一件の留守電があった。発信者の番号を調べると、この前名刺をくれた七瀬先生のオフィスの電話番号だった。
 リダイヤルで電話をすると、七瀬先生から検査結果が出たので報告をしたいとのこと。僕はこのことを話すと、ヒナギクさんが一緒に行くと言ったので二人で白皇病院に向かうのであった。


 白皇病院に着き、七瀬先生を呼び出すと……病院内ではやけに目立つ爽やかな人が僕たちの方に歩いてきた。
「綾崎さんと桂さんですね。お待ちしていました」
「検査の結果が出たんですよね」
「ええ、そうです。まあ、ここで話すのは難なので今から応接室へと案内しますね」
「……はい」
 僕とヒナギクさんは七瀬先生の案内に従い、応接室へと通された。
 応接室は三人で話すには少し広すぎる場所だった。七瀬先生は結果通知を取りに行くと言い、僕とヒナギクさんはここで待たされている。
「そういえば、歩が来ないのね」
「七瀬先生と一緒に来るんじゃないんですか?」
「それにしても、精密検査をするなんてね……ハヤテ君の要望でしたそうじゃない」
「歩があの日、胸に違和感があるって言ったから……まあ、万一のことを考えて診察の後にお願いをしてきたんです」
「だから、あの日……ハヤテ君は一人、診察室に残ったのね」
「ええ。まあ、その歩の違和感というのが勘違いで……僕の心配し過ぎっていう結果であればいいんですけどね」
 僕は笑いながら言うと、ヒナギクさんはつられたのか笑顔になりながら、
「きっと大丈夫よ。だって、歩は強い人だから!」
「……そうですね」
 僕とヒナギクさんが談笑をしていると、七瀬先生が何やら茶封筒のような物を持って入ってきた。歩の姿はない。
 病院らしく、白い少し大きめなテーブルが応接にはある。僕とヒナギクさんが隣同士に座って、テーブルを挟んで七瀬先生は僕の正面に座った。
「お待たせしました」
「いえいえ」
「西沢歩さんの精密検査の結果が出たのでご報告します」
「……はい。歩は大丈夫ですよね?」
 僕はきっと七瀬先生が言うであろう言葉を先に言ってみた。七瀬先生は優しそうな表情を浮かべているけど、どこか暗い印象がある。
 七瀬先生は僕が訊いてから十秒間口を開かなかった。僕も時間が経つに連れて不安になってくる。それはヒナギクさんも同じだ。
「……西沢さんは相当、敏感な感覚の持ち主だと私は思っています」
 その言葉に僕はどういう意味なのかさっぱり分からなかった。
「どういうことですか?」
「まずは血液検査の結果がこれです。見た通り、全ての項目は正常な値の範囲内にあったので問題ないと考えました」
「そうですよね。特別おかしい値はありませんし」
「ですが、綾崎さんが言った『胸の違和感』……私はこの原因を探るために、胸部のレントゲン写真を撮りました。今から、レントゲン写真を見せますね」
 七瀬先生はゆっくりと立ち上がり、持ってきた茶封筒の中からレントゲン写真を……バックライトのあるボードに三枚貼りだした。
 バッグライトが点き、僕とヒナギクさんはレントゲン写真を見る。
「あ、歩って……け、けっこう大きいのね」
「えっ?」
「な、何でもない!」
 ヒナギクさんはどこか恥ずかしそうにしていた。
 僕は歩の胸部のレントゲン写真三枚を見る。正直、僕には何が何なのかよく分からないのだが……七瀬先生はレーザーポイントで、
「向かって左のレントゲン写真が、西沢さんの右側から取ったもので、真ん中が正面、そして右の写真が左側から撮影したものです」
「はい。しかし、僕にはどこか悪いところがあるのかさえ分からなくて……」
「ええ。私も一瞬目を疑いましたが、右側の写真をご覧になってください。胸の下の部分、ここの小さな白い影があるのが分かりますか?」
「は、はい。分かります」
 レーザーポイントのおかげで何とか分かる程度だ。確かに、左にある写真の同じ部分には先生の言う“白い影”が見あたらない。
 僕はその時やっと分かった。先生の言った意味が、やっと。
「ま、まさか……」
 急に僕も何だか胸に違和感が湧く。しかし、それは心臓の鼓動だった。あの時、歩もそうかと思ったけど違ったんだ。
「ええ、はっきり言いましょう。西沢さんはステージⅠの乳がんです」
「……!」
 今、何て言った……?
 僕は無心に立ち上がり……七瀬先生の方を向く。
「綾崎さん、落ち着いてください」
「落ち着くも何も、歩がそんな病気に罹っているなんて知らなかったので……」
「いいえ、乳がんは初期の段階では自覚症状が現れないのがほとんどなんです。だからこそ、私は西沢さんが相当敏感な方だと言ったんですよ」
「それで、この病気は治るんですか?」
 七瀬先生は腕を組む。
「ステージⅠの癌というのはいわゆる初期癌というものなので、完治する可能性は九割以上です」
「そ、そうなんですか!」
 その言葉に僕とヒナギクさんは表情を明るくして見合う。
「歩はじゃあ大丈夫ね、ハヤテ君」
「まあ、今の西沢さんの場合は非浸潤癌と言って、他の部位に転移する恐れはありません。あくまでも現段階の話ですが」
「それなら、歩は治るんですね!」
 ああ、そうだよな。
 ここは白皇病院だし、歩の病気も初期の乳がんだし……ここで治療すれば絶対に歩は治る。ヒナギクさんもそう思っていた。
 しかし、七瀬先生の表情は晴れていなかった。
「……西沢さんは妊娠五ヶ月目に入りました」
「あっ……」
「女性が大きな病気を罹ったとき、妊娠しているかどうかで相当状況が変わってくるんです。また、妊娠何か月目かどうかでも」
「やはり、歩は妊娠したままでは……治療は難しいというのですか?」
「ええ、妊娠五ヶ月目というのは妊娠中期です。妊娠初期であれば、中絶もするかどうかも考えるのですが……」
「お腹の子供は早期に中絶をしないとだめなのでしょうか?」
「いえ、そうではありません。化学療法もありますし……しかし、西沢さんはまだ十七歳と若いので、癌の進行が急激に速まり、他の部分に転移をする浸潤癌に変わる可能性もあります。その時は、お腹の中にいるお子さんを中絶しなければならないことも」
「そんな……」
 どんな形であれ、いかなる時にも『中絶』の可能性があると思うと、それは辛いことに感じてしまう。
「そして、最悪の場合になった時は……申し上げにくいのですが、余命のことについても考えなければなりません」
――余命。
 その言葉を聞いた瞬間、僕は全身に……何か冷えた感覚が貫いた気がした。ぶるっと身体が震えてしまう。
 隣に座っていたヒナギクさんも、少しうつむいた表情に変わっていった。
「そうなった時の余命。あとどのくらいなんですか?」
 訊きたくはないけど、訊かないわけにはいかない。七瀬先生は流石に医者だからなのか落ち着いている。少し息を吐いて、
「半年から一年……そう考えた方が良いでしょう」
「……そうですか」
「で、でもそれは最悪の状態になった時の話です。今はその兆候も見られませんし、そのことも考えて欲しかっただけです。気分を害したならば、謝罪します」
「いえ、言ってもらえて僕は良かったですけど……」
 何とも言えない。
 もし、その病気が罹っているのが僕だったら……七瀬先生にすがるかもしれないし、この場で泣くかもしれない。それで、僕の気分が晴れるのなら遠慮なく、する。
 でも、現実はどうだ? 歩が罹っているんだ。僕がどうこう言ったところで歩の病気が治るわけでもない。
「できれば、西沢さんには綾崎さん、あなたから言ってもらった方がいいと思いますが、どうですか?」
「……そうですね。まあ、先生から言ってもらった方が信じてくれるかもしれませんけどね」
「私は西沢さんに直接訊かれない限りは。私から言うつもりはありません」
「……はい。言う決心がついたら僕から言おうと思います」
「分かりました」
「先生は……七瀬先生はどう考えているんですか?」
「えっ?」
「僕、いきなり好きな人が癌だって言われて、最悪の場合は余命が半年から一年だって言われて……僕、冷静になれないんですよ……」
 七瀬先生の顔がゆらめく。
 ああ、僕はきっと、涙を流しているんだ。そして、本音をぶつけているんだ。
「先生、教えてください……お医者さんなら、どうすればいいのか分かるでしょう?」
 僕は腕で必死に涙を拭った。
 ヒナギクさんは僕の肩に手を乗せる。その顔は、今の僕の様子を表しているようだった。ただ、一つ違うのは必死に涙を堪えているということだ。
「そうですね。私は医者です。どうすればいいのか知っています。でも、私はそれを患者さん達に強制することはできないんですよ」
「……」
「それに、特定の患者だけに深く情を入れることもできません。私にも他に担当している患者さんがいるわけですから」
「……それは、医者としての七瀬先生の考えですか?」
 七瀬先生は言葉を詰まらせた。さすがに、普段の爽やかな笑みは消えている。
「……そうですね。医者としての私の考えです」
「分かりました。それでは、先生自身の考えでは……?」
「……綾崎さん。決めるのはあなたと西沢さんなのですよ。確かに、この事実が夢であって欲しい。事実であっても信じたくない。その気持ちは分かりますが……あなたが向き合わないと西沢さんは救えませんよ」
「ですけど、僕は……」
「私はあなたと西沢さんが決断されるまで待ちます。そして、私はその決断に……受け入れる姿勢でいるつもりです。大丈夫です、私はあなた方がどのような決断をしても手助けをしていくつもりですから」
 それじゃ、さっき言ってたことと矛盾しているような気がしてならない。
 しかし、今の言葉は素直に嬉しい。再び、七瀬先生の顔が揺らめき始めた。
「覚えていて欲しいのは、治療を行えば治る可能性は高いこと。出産をした後でも治療すれば完治する可能性は十分にあること。そして、辛いとは思いますが……最悪の場合に陥ったときは、余命が半年から一年であること。それだけです」
「……はい」
「綾崎さん。一人で抱え込まずに、隣にいる桂さんや……ムラサキノヤカタでしたっけ。西沢さんから聞きましたよ。そこに住んでいる方達に話を聞いてもらうのも、私はいいと思いますよ」
 そして、再び七瀬先生は笑みを浮かべた。
 本当に常に七瀬先生は優しい印象を持たせてくれる。言っていることは厳しいことなのに、僕にとってそれは救いの言葉に聞こえてならない。医者であることが適任な人だと改めて感じた。
「今日の話は以上です。西沢さんには、軽い肺炎とでも言っておきます。まあ、実際にそれもあったのですが」
「……分かりました。ありがとうございます」
「何か病状で分からないことがあれば、いつでもお電話どうぞ」
「はい」
 僕とヒナギクさんは席から立ち上がり、ゆっくりと七瀬先生に例をすると応接室を出て行く。
 歩の病室に行くか迷ったけれど、言ったところで今の話を思い出して泣いてしまいそうだったので、僕とヒナギクさんはムラサキノヤカタに帰ることにしたのだった。


 同日、午後八時。
 あれからムラサキノヤカタに帰ってきて、僕はお嬢様とマリアさんに、ヒナギクさんは千桜さんとアーたんに話した。あと、ヒナギクさんは瀬川さん達にも携帯で今日の事を話したらしい。
 僕はマリアさんのご厚意で夕ご飯をお嬢様の部屋で頂き、お嬢様の部屋でゆっくりと足を伸ばしていた。
「そうか、それは確かに……迷うよな」
「ええ、何だか急に……高すぎる壁に当たってしまったような感じがするんですよ」
 もちろん、お嬢様は親身になって考えてくれていた。
 お嬢様はマリアさんが淹れてくれた、温かい紅茶を一口飲む。一回、はあっ、とため息をつくと、
「大げさに言えば、歩の命を取るか……お腹の中にいる子供の命を取るかということだよな。二者択一にしては重すぎる」
「ですが、担当の先生の話ですと……中絶をしなくても癌の治療ができるみたいなんですよ。まあ、それはすぐに治療を行うと決めればですが」
「そうか。ならば二人助かる方法で私なら考えをまとめたいな」
「お嬢様なら、ですか……」
――じゃあ、歩なら?
 僕は、歩だったらどんな風に考えをまとめるんだろう。僕も紅茶を一口飲み、一度心を落ち着かせながらじっくりと考えていた。
 普通の高校生ならば、こんな状況になることはまずはない。妊娠だけでも、乳がんだけでも。でも、歩の身体には両方の状況の素がある。乳がんの事実を、そして、余命のことを考えなくてはならない事実を伝えたら歩はどうなってしまうんだろう?
 ああ、考えるだけでも胸が痛い。
 この胸の痛みが歩から移ったものであればいいのに、と僕は切に思う。
「ハヤテ……」
「す、すみません。ちょっと考え事をしていて……」
 顔に出ているんだな。いや、こんな話をしたら……自然と出てしまうのが普通だろう。ああ、歩と代わりたい。
「しかし、乳がんは女性にとっては一番気をつけなければならない病気ですからね。私たちも意外と身近なことかもしれませんよ、ナギ」
「そうだな。乳がん検診を受けましょうという広告もたまにだが、見る」
「ええ。まあ……」
 マリアさんは僕の全身を舐めるようにしてみる。そして、くすっと笑って、
「男の方は乳がんになるのはほとんどありませんよ。いくらハヤテ君が女の子っぽい顔をしていても」
「何で僕がフォローされているように話すんですか!」
「ええ、だって……ハヤテ君は可愛いじゃないですか」
「何だか滅茶苦茶な気がするんですが……」
 まったく、マリアさんは……僕には歩という人がいるというのに、「可愛い」って言われるのは複雑な気分だ。
 マリアさんの言うとおり、乳がんは女性にとっては気をつけなければならない病気だ。実際に歩がそう診断されて、二人も身近に感じたのだろう。
「マリア、検診ってどんな検診があるんだろうな?」
「……挟むらしいですよ?」
「は、挟むって……む、胸で何かを挟むというのか!? 私にはちょっと難しいだろうか……。 って、ハヤテの訊く話しじゃないだろうが!」
「えええっ! 唐突にそれを言いますか!?」
「マリアもマリアだっ! 私に、そ、そんな……は、恥ずかしいことを言わせるのではないっ!」
「ふふふっ、ごめんなさいね」
 そう言ってマリアさんは上品に笑っているが、完全に面白がっているのが分かる。きっと、お嬢様のこういう反応を見たいありきに……。
 お嬢様は狼狽しつつ、
「それで……私の言ったことは本当なのか?」
「……違いますって」
「何だとおおおっ!!」
 お嬢様は完全に怒った。威勢良く立ち上がり、マリアに指を指しながら、
「マリア……いくらマリアでも言っていいことと悪いことがあるぞ!」
「あらあら、ナギ。私はただ『挟むらしいですよ』と言っただけで、それより先の事はナギが自分で言ったことじゃないですか。ね? ハヤテ君」
 きっと、今の言葉の語尾にはハートマークが隠れているんだろう。
「そ、そうですね」
 実際にそうだったわけだから、僕は正直に答える。
「む、むむむっ……!」
「ナギは何を想像されていたのですか? もしかして、千桜さんからもらった同人誌の中に紛れ込んでいた本で……」
「あああっ!! 私は何にも疚しいことなんて考えてないからな!」
 この二人の今の会話には僕はついていけない。まあ、ついていけない方が吉だというのは雰囲気で分かった。
 そういえば、去年の冬コミで出すと言ってルカさんからもらった同人誌……今度、ルカさんに会ったらお礼を言っておこう。
「くううっ……! それで、胸で何を挟むのだっ!」
 恥ずかしそうにお嬢様はマリアさんに訊くと、マリアさんはやれやれといった表情で、
「だから、胸で何かを挟むのではなくて、胸を挟むんですよ。マンモグラフィー検査っていうんですけどね」
「な、なんだって! む、胸を挟む……だと!」
 何だ、このかつてない衝撃を受けた……みたいな表情は。
 でも、歩から聞いたことがあるな。確か、X線撮影をしてがん細胞を見つける方法だった気がする。たしか、早期発見に繋がるらしい。
「それって、痛いのか?」
「そうですねぇ……」
 マリアさんはさっき僕を見たときと同じように、舐め回すような感じでお嬢様を見て……特に胸部の部分を見ている。まあ、話の内容が内容だけに……。
「ハヤテは見るなっ!」
「……見ませんよ」
 お嬢様も十四歳になって、思春期真っ盛りですからねぇ。色々と複雑な気持ちがあるのでしょう。
 マリアさんはにやりと笑った。
「痛いらしいですよ、とっても。特にナギのような人にとっては……」
「何だか凄く侮辱された気がするのは気のせいか?」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
 メイドのスマイルを絶やさずに、マリアさんは答える。
「じゃあ、ヒナギクも痛い思いをするんだな」
「……そ、そうなってしまいますかね。ヒナギクさんには失礼ですが」
 そして、今はさすがに苦笑いだった。
「やっぱり侮辱していたではないか! まったく、マリアはもうまったく!」
「しかし、ナギも私も近いうちに受診した方がいいかもしれませんね。定期的にすることはいいことだと思いますので」
「……まぁ、それはそうだな。うん、それは正しい」
「ハヤテ君も一緒に受けてみますか?」
「……遠慮しておきます」
――そして、どうしてつまらなさそうな表情なんですか、マリアさん。
 だけど、歩のこの診断が……お嬢様たちの健康に対する感心を強くしたということを考えると、僕は決して暗いことだけの印象ではなくなってきた。
 歩と同じ病気にかかってほしくない。そのためには、マリアさんの言うとおり……定期的な検診が大事になってくる。
「なぁ、ハヤテ」
「なんですか? お嬢様」
「今、私が感じている怒りを何かにぶつけたくなってきた。ハヤテ、ゲームでもしよう」
「……えっ?」
「暗い話をした後には、楽しいことをするべきなのだ! この前、ヒナギクに負けたから、今度勝つためにも今から練習するんだ!」
 まあ、それもいいのかもしれないな。
 去年の間にお嬢様はヒナギクさんと例の対戦をしたのだけれど、予想通り……最初こそお嬢様が勝っていたものの、徐々にヒナギクさんがコツを掴み……最終的にはヒナギクさんの快勝だった。
 なので、僕が練習相手になる。きっと、マリアさんだとヒナギクさん相手と同じ結果を辿りそうだから。
「分かりました、でも……ちょっとだけですよ」
「分かってるさ。気分転換ってやつだよ」
 僕はお嬢様にコントローラーを渡され、お嬢様と熱い戦いを繰り広げるのであった。


 二時間くらいずっとお嬢様とゲームをしていた。
 結果は僕とお嬢様の五分五分。きっと、ヒナギクさんとの対戦もこのような結果が良かったのだとお嬢様は思っているだろう。
 しかし、終わったときに、
「ハヤテと五分五分ではヒナギクには勝てないな」
 と、やけに納得されたときには、何だか切ない気分になったけど……何だか楽しい気分になれて良かった。
 僕はお嬢様の部屋から出て、僕と歩の部屋に戻ろうとしていたときだった。
「あら、ハヤテ君」
「ヒナギクさん」
 そこには、お風呂上がりだと思われるヒナギクさんが立っていた。薄いピンク色の寝間着を着ていて、タオルを首にかけていた。
「ナギの部屋から出てきたみたいだけど、何かしていたの?」
「ヒナギクさんにこの前負けたからと、僕が練習相手にさせられていました。まあ、そうお嬢様は言っていましたが、僕に気分転換をさせたかったのではないかと」
「……まあ、少し手加減してあげたんだけどね」
「お嬢様、凄く悔しがっていましたよ」
「それで、少しくらいは腕が上がったのかしら?」
「僕と五分五分でした」
「ふうん、じゃあ……まだまだね」
 お嬢様と同じ反応を示した。ヒナギクさんは少し勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
 まったく、僕はお二方にはどう思われているんだろうか。まあ、ゲームのことでそこまで深く考え込むことはしないけど。
「それでは、僕は部屋に戻りますね」
 僕はそう言って部屋の扉を開けたときだった。
「待って、ハヤテ君」
 ヒナギクさんの温かい手がドアノブを掴む僕の右手に触れる。ヒナギクさんはすぐに手を離して、
「ご、ごめんね。そ、その……もうちょっとハヤテ君と話したいっていうか、なんていうか……」
「……いいですよ。じゃあ、部屋の中でゆっくり話しますか」
 僕はヒナギクさんを部屋の中に招き入れた。
 部屋の電気を点け、すぐに暖房を点ける。一月の夜ということで、屋内でもとても寒かった。お風呂上がりのヒナギクさんもきっと少しずつ寒くなっていくだろう。
 ヒナギクさんはテーブルの側にあった座布団の上に座った。
「温かいミルクでも飲みますか?」
「あっ、お願いするわ」
「はい」
 そうだな、お風呂上がりでも今の季節は温かい飲み物が欲しくなるよな。僕は冷蔵庫の中にあった牛乳をコップに注いで、電子レンジで二分ほど温める。
 僕はヒナギクさんの前にそっと差し出した。
「ホットミルクです、どうぞ」
「ありがとう」
 ヒナギクさんはホットミルクを一口、ゆっくりと口の中に入れる。喉に通ると、ヒナギクさんは何とも言えないような穏やかな表情で、
「うん、美味しいわ。身体も温かくなるし、ちょうど良かったかも」
「そうですか、なら良かったです」
「歩にはこういうものは飲ませていたの?」
「……ええ、たまにですけど」
「ふうん」
「歩はこれが大好きなんですよ。一回、僕がこのホットミルクに砂糖を入れたことがあったんですよね。そうしたら、歩がすごく気に入っちゃって……もうちょっとちょうだいって言うんですよ。それで……僕は……」
 ああ、僕はこの家にいると歩のことが頭から離れない。
 だからこそ、僕はヒナギクさん相手でも……歩のことになると、我を忘れたように話したくなる。そうすれば、歩が側にいるようで。
 気づけば僕は涙を流していた。
「……ハヤテ君はそれだけ、歩のことが好きなのね」
「……ええ」
「歩がいなくて、寂しい?」
「……」
 去年、入院してから一度も歩はこの家に帰ってきていない。
 僕は今まで一人の部屋が当たり前だった。歩と住むまでなら、一人の部屋にいても全然平気だった。
 でも、今は違う。歩と二人でいるのが普通なんだ。今なら、一人でも広すぎる。少し暗い狭いくらいでいいから、歩とまた二人で同じ天井の下で笑っていたい。
「寂しくないわけ、ないわよね」
「……ええ、寂しいですよ。だって、昨日までは歩が何時でもここに帰ってきてくれると思っていました。でも、今日の七瀬先生の話を聞いてからは……もう、歩がどこか遠い存在の人に思えてきてしまって……」
「私も急に、歩の手がどこか遠くへ行ってしまうような気がしたわ」
「歩が戻ってこないかもしれないと思うと、僕はもう……押しつぶされそうなくらいに怖いんです。それが、ほんの少しの可能性であろうと」
 ヒナギクさんの顔がはっきりと見えない。
 僕は必死に右手で目を覆い隠すけれど、涙は更に出てくる。きっと、それはヒナギクさんには分かってしまうだろう。
 だけど、声だけは必死に堪えていた。せめてほんの少しでもしっかりとした所を僕は誰かに示したかったのだと思う。
「ハヤテ君……」
「ご、ごめんなさい。僕がしっかりしなきゃいけないのに、泣いているところを見せてしまって……」
 だが、その時。
 僕が右手を離し、光を取り戻した瞬間……ヒナギクさんが僕の胸に飛び込んできた。それはあまりに突然のことで、僕は何も反応することができない。
「ヒ、ヒナギクさん……?」
「……私はここにいるわ」
「えっ?」
「ハヤテ君が寂しくても、私が少しでも寂しくないように……側にいる。そうしていていないと、私の気持ちが収まらないの」
 ヒナギクさんから伝わってくる温かさ。シャンプーの香り、そして、さっきのホットミルクの所為なのか、ヒナギクさんの吐息から感じられる甘い匂い。
 全く同じではないものの、去年の……子供ができるきっかけとなったあの日、歩の部屋で今のヒナギクさんのように歩がなった時と似ている。
 ヒナギクさんは手を僕の胸に当てて、顔をゆっくりと覗き込むように見てくる。
――まるで、あの時の歩そっくりだ。
「ヒナギクさん、どうしてそこまで……?」
「……」
 一瞬、僕の方への視線を逸らした気がした。
 しかし、ヒナギクさんはすぐに僕の方を見つめ……気づけば、ぎゅっと僕のワイシャツを掴んで、恥ずかしそうに、しかし、どこか決意を秘めていたかのように、ヒナギクさんは言った。


「ハヤテ君のことが、好きだから」


 一言、僕の耳に伝わった。
 それが、ヒナギクさんの精一杯の言葉。一音一音を確認すると、ヒナギクさんは僕のことを今でもそう思ってくれているらしい。
「僕のこと、が?」
「うん。ずっとずっと……好き」
 力なくヒナギクさんは言うと、今度はヒナギクさんが泣き始めた。
「いけないよね。ハヤテ君には歩っていう恋人がいて、二人の間には子供ができていて……それなのに、どこか諦められない気持ちがあって。余命の話が耳に入った瞬間に、私がハヤテ君と一緒になれるチャンスが来たかもって思ったなんて……!」
「ヒナギク、さん……」
 恋人同士の間に子供ができた。結婚前でも愛し合っているなら、それはおかしくないかもしれない。
 でも、僕と歩は互いに高校生だ。それは、普通はあってはならないこと。だからこそ、ヒナギクさんは思ったんだろう。いつか、自分にも僕と付き合える。歩と同じ運命が味わえるのだと。
「私、歩と付き合うって知ったとき……ショックだった。本当は喜びたいと思ったのに、また私から大切な人がいなくなってしまうような気がして」
「……」
 ヒナギクさんの本当の両親が昔、桂先生とヒナギクさんを置いていった過去があるから。ヒナギクさんは思ったのか。
「あの時、ヒナギクさんが怒っていたのはその所為だったんですね」
「うん。でも、それは……今の気持ちを隠したかったからだと思うの。今から考えると」
「今から考えると?」
「だって、私が泣いてまで……こんなことを言うなんて想像できないでしょ? 生徒会長が人前で涙なんて見せられないから」
「ヒナギクさんはどこか堅いんですね。巷で生徒会長と呼ばれる人も元々は人なんですから、泣くのは当然ですよ」
――実際に泣いていたじゃないですか。今日、歩の話を聞いたときに。
 泣いたという自覚はないかもしれないけど、あの時……ヒナギクさんは確かに泣いていた。僕はそれを知っている。
 だからこそ、僕は今……ヒナギクさんが泣きながら僕に告白したことも全然驚いていない。
「私は歩と付き合っていても、いつかは私にもきっと歩の立場が回ってくるだろうって思った。でも、それは来なかった。それを思い知ったのはハヤテ君。去年、あなたの誕生日に歩が妊娠したって言われたときよ」
「妊娠は確かに、決して切り離せない関係にしてしまうことですから……」
「そう、その時……私は一回諦めた。でも、世の中にはいるでしょう? 若い夫婦が子供を作ったのはいいけれど放置して、酷いと虐待をしてしまうって。僅かだったけど、そう思っていたの。本当はこんなにも愛し合って、未来に生まれてくる子を待ち望んでいたのは分かっていたのにね」
 確かに、歩の妊娠が分かったあの日……歩のお父様にも言われたことだ。僕は、未来に出会う我が子を幸せにしようとその話を機に誓ったんだ。
「だからこそ、ずっと諦めなかった。だから、私はハヤテ君にずっと恋心を持っていたの」
「なるほど」
 ヒナギクさんの言いたいことは分かった。しかし、僕には納得できないことがある。
「でも、ヒナギクさん。一つだけ言いたいことがあります」
「……えっ?」
「僕と付き合えるチャンスがあろうとなかろうと、人を好きになることっていけないことではないと思います。たとえ、僕が歩と切っても切れない関係にあっても」
 よっぽど、僕がしたことの方がいけないことだ。もしかしたら、そのせいで歩は今……苦しんでいるのかもしれないのに。
「だから、泣かないでください。ヒナギクさんには感謝しているんですから」
「ハヤテ君……」
「確かに僕は今、寂しいですよ。歩が隣にいなくて、いつかいなくなるかもしれないと思って」
 僕はゆっくりと息を大きく吐いた。
「でも、寂しいってことはその人のことを愛していることだと僕は思うんですよ。今までは一人でも大丈夫だったのに、今は寂しくてたまらない」
「……」
「ヒナギクさんの気持ちは嬉しいですよ。寂しさを紛らわしてくれるって……」
「うん」
 両手でゆっくりとヒナギクさんのことを抱きしめる。
「今はその言葉に甘えます。もう少しだけ、このまま……僕の側にいてもらってもいいですか?」
「うん、嬉しいわ。私も何だか寂しさが紛れていく感じになれる……」
 抱きしめたときに感じる温もりは確かにあって、
 目には見えない優しさが確かにあって、
 言葉には表せない愛しさが確かにそこにはあった。
 歩。許してくれるなら……もう少しだけ、今……目の前にいる彼女を抱きしめ続けてもいいですか?
 愛し抜けるのは歩しかいないけれど、今、ここには……手放したくない気持ちが、消したくない気持ちがここにあるんだ。
 僕は少しの間、ヒナギクさんのことを手放すことはなかった。


――僕は一人ではないことを、この時に改めて知ることができた。



vol.8に続く。歩に病気のことを伝えるときが来る。
自分の命か、産まれてくる子供の命かどちらを優先するのか・・・?
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