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カノン


~SELL 2 結合~


――恋人になった途端、僕は歩のことが頭から離れなくなった。


 九月も中旬に入って、二学期にも徐々に慣れてくる頃。
 ある朝、僕は普段通りヒナギクさんのランニングを見送り、玄関先を掃除、そしてお嬢さまたちの朝食の準備をしていた。
「何だか最近、ハヤテ君は楽しそうですが何かあったのですか?」
「いえ、特に何もありませんけど……」
 と、マリアさんに返事をするのだが、実際はあった。西沢さんと恋人になったことはまだお嬢様しか知らない。
 最近は夜になると西沢さんから電話がかかってきて、少しであるけど彼女の声を聞く。一日の中でこの時間が一番楽しい時間になっている。
 そんなことを思ったのか、僕の顔は緩んだんだろう。マリアさんは優しい顔で、
「もしかして、彼女さんとかができちゃったんですか?」
「そうなんですよ」
 マリアさんの何気なく語りかけてきた質問に、僕は軽はずみに答えてしまった。次の瞬間、マリアさんの表情が固まった。「信じられない」と言わんばかりの、冷静で冷たくも思える目線で僕のことを見る。
「……ほ、本当なのですか?」
「ええ、何だか傷つけるような目つきで僕のことを見ていますけど、本当ですよ」
「し、信じられません。私より年下の男の子が恋人を作るなんて……」
「世間には恋人がいる高校生はいますって!」
 マリアさんは周りが貴族という環境で育ってきたから、許嫁はいる人は見たことがあるけど恋人がいる人はあまり見たことがないんだろうな。しかも、自分よりも年下の人となると。
「しかも、よりによってハヤテ君だなんて」
「その言葉にはさすがにマリアさんでも少し怒りたくなりますね」
「だって、ハヤテ君はハーレムみたいな感じでしたもの。それに、ハヤテ君が女性と関わると色々と面倒なことになるので……。ちなみに相手の方はどなたですか?」
「西沢さんです」
 僕がそう答えるとマリアさんの表情が青ざめる。
「こ、このことはナギには言ってませんよね?」
「えっ? お嬢様は既に知っていますが」
「えええっ!!」
 突然、マリアさんは大声で叫んだ。下手したら、千桜さんやアーたんが慌ててここに来るくらいに。
 そして、当人であるマリアさんは怯えた表情になっていた。
「これでハヤテ君とナギの人生は終わるんですね」
「何を不吉な事を言っているんですか!」
「だって、このことをナギが知ったということは、そ、その……ナギにとっては生きる意味を失ったということになりかねない気がして」
「何故にそんな大それたことに!?」
「いいんですよ。西沢さんを好きになってしまったことはしょうがないです。私は一歳年上のお姉さんとして、ハヤテ君と西沢さんのことを応援しますから」
 マリアさんは目を潤ませて、僕の手を優しく握る。
――ああ、マリアさんはとんだ勘違いをしているみたいだ。
 僕にもやっと分かった。しかし、何だかここまで言われると逆に言いにくい空気だ。さあ、何て言おうか。
 あと、何で「一歳年上」と言ったのだろう。まあ、それは置いといて、
「あ、あの……お嬢様からは西沢さんと付き合うことの許しは得ていますから」
「……えっ?」
「いや、僕が西沢さんに告白したあとに、その……キスをしたんですけど、そのことをお嬢様が見ていて、あっさりと了解を得ました」
「えええっ!!」
 再び、誰かがすぐさまに飛んできそうな叫び声をマリアさんは上げた。
「……あの、今度は何に驚いたんですか?」
「あっ、け、決してハヤテ君が告白したことに驚いたなんてことはないんですよ! 何だかハヤテ君はチキンな感じがしたので意外だったとか、別にそういうことじゃないんですからねっ!」
「……別にツンデレっぽくごまかしてくれなくていいですよ」
「だ、誰がツンデレですかっ!」
「それよりもその言い方は失礼じゃないですか! たしかに僕は少しチキン野郎と言われる部分はあるかもしれませんけど、それでも頑張って告白したんですから!」
 僕はそう弁明をすると、マリアさんは僕に優しい微笑みを見せてくれた。何だか、可哀想な子供を相手にしているような笑みだけど。
 それよりもマリアさんにチキン野郎だと思われていたなんて……それはそれで何だかショックだ。ぐさっと何かが刺さったような感じ。
「そうですか、やっぱり男の子なんですね」
「やっぱり!?」
「あっ、今まではちょっと男の“娘”なのかなと思ったことがあっただけですよ」
 再び何かが僕の身体に突き刺さった気がした。
「何だかマリアさんに言われると、他の誰からよりも傷つくんですが」
「すみません。しかし、ハヤテ君もやるときはやるんですね。何だか、初めて会ったときよりも大分成長した気がします」
「そうだったらいいんですけどね」
 何だかこの言葉も僕に同情して言ってくれているように感じてしまって、僕は苦笑いしかできなかった。
 しかし、マリアさんはどうなんだろう。お嬢様みたいに僕のことを……って、そんなことはあり得ないか。
 すると、背後から足音が迫ってくる。僕は振り向くと、
「何だかマリアさんの悲鳴が聞こえたんだけど」
 髪を下ろしていて一瞬分からなかったけど、メガネをかけているこの姿は千桜さんだった。やっぱり来たか。
「すみません、大声を上げてしまって」
「いえ、別にいいですよ。早起きできたんですから」
 しかし、千桜さんはまだ眠たそうな表情をしていた。メガネを外して目をこすっている。だけど、このメガネを外した千桜さんの顔、どこかで見たような。まあ、別にいいか。
「ところでマリアさんが大声を上げるなんて、何かあったんですか?」
「いえ、ただハヤテ君に恋人ができただけですよ」
 と、近所の人と井戸端会議をしているように話されても。話に出てくる本人がここにいるわけで。
 千桜さんはメガネをかけ、僕の顔をじっと見ると、
「ほぉ、なるほどな」
 と、冷静に呟いた。
「ちなみにハヤテ君から告白したそうですよ」
「ほぉ、なるほどな。それで相手は私の知っている人なんですか?」
「西沢さんです。ナギと同じ所で働いている女性で」
「ほぉ、なるほどな。彼女か」
 千桜さんは全て同じトーンで「ほぉ、なるほどな」と言ってきた。もしかして、寝ぼけていてあまり衝撃を受けていないのだろうか?
 すると、千桜さんは僕の方を向き、ゆっくりと右手の親指を立てて、
「リア充昇格おめでとう、綾崎君」
「あ、ありがとうございます」
「しかし、綾崎君はそういうことには奥手だと思っていたんだが、意外と積極的に早く恋人を作ったんだな」
「そこはどう反応すればいいのかよく分かりません」
 まあ、「チキン野郎」よりかは「奥手」の方がマシだけれど。僕はとにかく、自分から告白するタイプじゃないと思われているんだな。
 千桜さんは腕を組み、うんうんと頷いた後に、
「このことはナギには言ったのか?」
「マリアさんにも訊かれましたよ。西沢さんに告白して、その後にキスをしたんですが……その一部始終のほとんどを見られてしまって。でも、意外とあっさりと付き合うことを許してくれましたよ」
「まあ、だったらいいんだけど。というか、キスまでしたのか」
「千桜さんはどう思いますか?」
 僕は何の気もなしにそんなことを千桜さんに訊いてみると、千桜さんの表情が急にぱっとなって、
「べ、別にそんなの私はどう思っても関係ないだろう!」
 声を荒げて僕にそう言う。何だか千桜さんの体温が急激に上がった気がするぞ。
「あっ、そ、そうですよね。すみません、変なことを訊いちゃって」
「い、いや……私も声を荒げてしまってすまない」
 千桜さんは何だか恥ずかしそうに僕にそう言った。
「しかし、西沢さんは他の高校に通っているんだろう? 毎日会えなくて寂しくはないのか?」
「まあ、毎日夜には電話をしていますし、寂しくはありませんよ。確かに毎日会えればそれ以上に嬉しいことはないんですけど」
「……そういうものなのか」
 千桜さんは右手で髪を軽くかいた。やけに冷静な人だ。
「だけど、何だか彼女ができたと知った途端、綾崎君が急に男っぽく見えてきたぞ」
「そうですか?」
「ああ、忘れはしないさ。女性の普段着を着たときの姿は。そういえば、あの時の服を貸してくれた女性が西沢さんだったな」
「え、ええ……そうですけど」
「たしかに今思えば、好きな男性になら自分が着ていた服を着させるのに頷くよな」
 千桜さんは勝手に納得をしているようで、うんうんと再び頷いている。
 しかし、思い出したくないことを思い出させてくれましたね。あの後、ルカさんにも会ってしまって、一緒にカラオケに行った先ではマリアさんにも出会って、その後も云々。僕の数ある黒歴史の一つだ。
「いや、貸さない人は貸さないでしょう」
「それはそうかもしれないけど、西沢さんはきっとその時から綾崎君のことが好きだったんだよ」
「今年の初めに実は西沢さんから告白されていたんですけどね」
「な、何だと……? ま、まさかそれが今回の伏線だったとはな……」
「伏線というほどのものじゃないと思いますけど」
「とにかく、おめでとう。私は応援するよ」
「ありがとうございます」
 と、僕はお礼を言うと、千桜さんは右手を差し出してきた。きっとこの手はあの言葉も含まれているのだろう。僕は右手で千桜さんと堅い握手を交わした。
「あれ、ハヤテ君と千桜。握手なんかしちゃってどうしたの?」
 朝のランニングから帰ってきたヒナギクさん。爽やかな汗が首筋を走っていた。
「おっ、いいところに帰ってきたな。ヒナ」
「何かあったの?」
「いや、綾崎君のことなんだけどな。最近、彼女ができたんだって」
 千桜さんがそう言った途端、ヒナギクさんは僕の胸の辺りを両手で締め上げてきた。
「ど、どういうことそれっ!?」
「ヒ、ヒナギクさん……く、苦しいです……」
「答えなさい。誰と付き合っているのか答えるまで絶対に離さないんだから!」
 どうしてヒナギクさんはこの凄い剣幕で僕のことを襲ってくるんだ。酸欠なのか段々と頭もくらくらしてきた。
 マリアさんも千桜さんも傍観していないで僕のことを助けてください! と、叫びたかったがなかなか声に出せなかった。
「さあ、白状しなさい!」
 と言って、ヒナギクさんは力を強めてくる。しかし、同時にヒナギクさんの汗の匂いが……って、そんなことを感じている場合じゃない!
「に、西沢さん……です」
「えっ、あ、歩と……?」
「はい。とりあえず……離してくれませんか……?」
 すると、ヒナギクさんは力ない表情で僕のことを離した。なんだ、西沢さんと付き合っていることがそんなにショックなのだろうか。
「はあ、死ぬかと思いましたよ」
「大丈夫か、綾崎君」
「そう言ってくれるなら、何かフォローしてくださいよ」
「ああ、すまない。しかし、何だかこの場面が少し修羅場のような感じがして面白かったからな」
「別に修羅場とかじゃないですよね。ヒナギクさん」
 僕はヒナギクさんの顔を見ると、
「……っ」
 無言だった。しかも、さっきまでの怒っているような表情からは考えられないほどに、力なく、そして悲しい表情になっていた。
「どうしたんだ、ヒナ」
「……ううん、何でもないよ」
「何だかさっきから様子がおかしいぞ?」
 千桜さんがヒナギクさんの肩に手を乗せると、ヒナギクさんはそれを振り払った。千桜さんはただ驚くばかりだ。
「別に何もおかしくないわよ」
「ヒナギクさん、だったらどうして……」
「何でもないって言ってるでしょ! ハヤテ君、歩と上手くいくように頑張りなさいよ。私は知らないからっ!」
 気づけば、ヒナギクさんの目からは大粒の涙。そして、僕から逃げるように走って立ち去ってしまった。
「ヒナギクさん!」
「ここは追わないでそっとしておいた方がいいですよ。ハヤテ君」
 マリアさんは冷静に僕にそう言った。千桜さんも冷静だった。
「しかし、そうだったとはな」
「そうですね。まさかヒナギクさんがそうだとは……」
――えっ、どういうことですか?
 僕はそのことを二人に訊こうと思ったけど、答えてはくれなそうなので僕は何も言葉を出さなかった。
 しかし、こういう話が誰か一人に伝わるとあっという間に多くの人へと広まってしまうことを、何だか身体で実感した気がした。


 翌日になったが、あれからヒナギクさんは僕に口を一つも利いていない。
 授業が終わって桂先生が来るのを待っている間、僕は携帯電話を開くと新着メールが一件あることに気づく。
「誰かな」
 受信BOXを開いてみると、送信先が西沢さんだった。
 中身を読んでまとめてみると今日の夕飯は西沢さんが作り、そして僕を泊めてくれるらしい。今日が金曜日だからだろう。
 二学期が始まって十日以上経っている。あれから会うのはバイトのシフトで一緒になった時だけで、二人きりで直接話せるのはその時間の中でもほんの少しの時間だけ。西沢さんはきっと僕と二人の時間をゆっくりと過ごしたいんだ。
 しかし、そうなるためには一つの壁を乗り越えなければならない。
「果たして、お嬢様はこのことを許してくれるかどうか……」
 僕の前の席に座っているお嬢様の背中を眺めつつ、お嬢様と帰る時間をただじっと待った。その時は何度かちらっと、ヒナギクさんのことを気にして。
 と、そんなことをしていた矢先だった。
「にははっ、ハヤ太くん。聞いちゃったよ、ちーちゃんから」
 天真爛漫な笑顔を常に浮かべている泉さんが、僕のすぐ側に近寄ってきた。
「ちーちゃん?」
「千桜ちゃんのことだよ」
「ああ、千桜さんですか」
「それで、ちーちゃんから聞いたんだけどね。ハヤ太くん、歩ちゃんと付き合ってるんだって? 何だか面白そうだね」
「……なんで面白そうなんですか?」
 泉さんに面白そうだと言われるということはイコール……そう、遠くから僕の方をニヤリと見ている花菱さんと朝風さんにとっても面白そうだということだ。
 しかし、ヒナギクさんがいるのにこの話題を笑いながら話してほしくない。ヒナギクさんはこの話をして昨日は怒ったのだから。
「だって、いい動画が撮れそうじゃん」
「……そんなことだろうと思いましたよ。却下です、僕と西沢さんのことをむやみにのぞき見しないでください」
「にははっ、そういう風に言ってくるなんて歩ちゃんのこと相当好きみたいだね。もうキスとかしちゃったかな?」
 その言葉に僕の顔は急に熱くなった。瀬川さんの笑顔の裏には何が隠れているのか全く分からない。
「瀬川さんに教えることではないでしょう」
「そっか~。残念だなぁ~」
「花菱さんと朝風さんとよからぬことを企んでいるのかもしれませんが、何もしないでくださいね」
「うんうん、しないしない」
――絶対に信用できないぞ。
 瀬川さんは何故かステップで二人の所に戻っていった。
 この間、お嬢様もヒナギクさんも僕の方に振り向くことは一切なかった。
 西沢さんを瀬川さんたちの楽しむ材料なんかには決してさせない。執事なのか、誰かを守るということが使命のように感じると、だんだん血がわき上がってくる。
 だけど、とりあえずはお嬢様に許可を取らなければ。
 僕はお嬢様と帰る時間をひたすら待った。


 今日は放課後に生徒会の会議があるらしい。
 なので、ヒナギクさんと千桜さんとは一緒に帰ることはなく、僕はお嬢様と二人で帰ることになった。
 西沢さんとの約束の許可を取るには絶好のチャンスだ。
「今日も暑いな、ハヤテ」
「そうですね」
 今日も快晴で、きっと今の気温は三十度以上の真夏日だろう。
 九月も中旬に突入したのにもかかわらず、秋雨前線による雨が数日間降ったかと思いきや、それは梅雨前線だったのではないかと思わせるような蒸し暑い日々。夏の高気圧はあと一週間くらい東京に居座ってくれるらしい。
 青空は僕にとっては色々と良い事があるので好きだけど、お嬢様は多分嫌いだろう。ネトゲが大好きなお嬢様は、蒸し暑いこの空気が何よりも嫌いだろう。
「これも地球温暖化の影響か!? なぜ、秋雨前線の雨の後がこんなに暑いのだっ!」
「きっと、夏の蒸し暑い空気が秋の涼しい空気に勝ってしまったんですよ」
「くっ……私は地球温暖化が嫌いだ! こんな辛い目に遭うなんて」
「はははっ、だったらゲームは控えましょうね。節電をすることでエコになって、地球温暖化を防ぐことになりますから」
 僕はお嬢様にそう言うと、さっきまでの勢いはどこへ行ってしまったのやら。
 お嬢様はしゅんとした表情になって、
「だったら今の暑さを我慢する。ゲームができないのはつらいのだ」
「そこは譲れないんですね」
 まったく、このゲームなどの執着ぶりは将来になって少しは緩和されるんだろうか? 全く緩和することがなさそう怖い。
「それに、『暑さも寒さも彼岸まで』という諺もあるくらいですから、あと二週間ほどで厳しい暑さは過ぎていきますよ」
「あと二週間もこの暑さが続くのかよ……」
「夏休みも頑張って乗り越えたんですから、お嬢様だったら頑張って乗り越えられますって!」
「そ、そうかな?」
 お嬢様は少し照れくさそうに答えた。今の励ましはどうかと思ったけど、まあ前向きに考えてくれそうだからいいか。
――よし、これなら大丈夫かもしれない。
「お嬢様、お願いがあるのですが」
「えっ? な、なんだ? 藪から棒に」
「そ、その……今日は西沢さんの家に泊まってもいいでしょうか!」
 勢いで僕は言った。
 次の瞬間、お嬢様の顔はかーっと赤くなって、
「お、おおおまえと歩は……そ、そそそこまで進展しているのか!?」
「ち、違いますって!」
「だって、恋人の家に泊まりに行くなんて……そ、相当の仲ではないとできないものなのだぞ! き、きっとな!」
 自信なさげに言うのがお嬢様らしくないけど、
――そういうものなんですか?
 たしかに、僕は西沢さんにキスをするくらいに好きで……。西沢さんはきっと僕のことを、夕飯を作ってあげて泊まってもいいと思えるくらいに僕のことを好きになってくれているんだろう。
 そうか、それって相当の仲じゃないとできないことなの、か。
「ですけど、お嬢様。それは西沢さんから誘われたことです」
「歩が? 本当なのか?」
「本当ですよ! ほらっ!」
 僕は例の西沢さんからのメールをお嬢様に見せる。これじゃ、何だか僚艦に外泊許可を取っているような感じだ。
 さすがに証拠を見せるとお嬢様は何も言わなくなり、
「分かった、いいだろう。まあ、歩に会いたくなったら何時でも私に言ってこいと言ったのは私自身だからな。歩から言われては許せないわけがない」
「お嬢様……ありがとうございます!」
 僕は深くお辞儀をした。
 普段はわがままで傲慢な部分もあるけれど、こういう時はちゃんと考えてくれるからお嬢様は優しい方だと思う。
「明日は土曜日だし、執事の仕事は考えなくていい。歩とゆっくりと過ごすんだぞ」
「お嬢様……」
「まあなんだ? 私からの命令はそれかな」
 お嬢様は少し不機嫌そうに、だけど少し照れくさそうに。そう言うと、少し早めのスピードで歩き始めた。
 僕はすぐに西沢さんにメールを送った。
『西沢さんの料理、楽しみにしていますよ(^o^)』
――きっと、このメールを見てはりきるんだろうな。
 すぐに西沢さんのそんな姿が頭に浮かんだ。本当にそうだったなら、僕は素直に嬉しい。両親にもそんな風にされた経験はなかったから。
 そんなことを思っていたら、お嬢様の姿は随分と小さくなっていた。このままじゃ見失ってしまう。
 僕は急いでお嬢様のところまで追いかけたのだった。


 午後六時前。
 日も完全に沈んで、外を見ると空は夕焼けの余韻だけとなっていた。
「よし、このくらいでいいかな」
 ムラサキノヤカタに帰ってくるとすぐにお嬢様がマリアさんに今回のことを話すと、マリアさんは快く「ゆっくりと休んできてください」と言ってくれた。
 そして、僕はお言葉に甘えて自分の部屋で荷物の準備をしている。
「と言っても、用意するものなんてそんなにないよな」
 旅行用の黒いダッフルバッグを出したけれど、思えばそこまで入れるものは多くなかった。寝間着に翌日の私服、洗面用具一式……。もしかしたら、西沢さんの家族の方が気前よく貸してくれるかもしれないけど、ここはしっかりと持参しなければ。
 僕は屋根裏部屋に住んでいる。屋根裏部屋らしく、お嬢さまなどの部屋よりも置いてある物は少ない。しかし、僕は執事。寝られる場所があるだけでもありがたいと思って、僕はここでの生活も送っている。
 陽も沈んだので、少し高い所にある豆電球を点ける。これもまた、屋根裏らしい感じだと思う。
「もうそろそろ行った方がいいかな。西沢さんを待たせても悪いだろうし」
 あまり明るいうちから行くのも迷惑かと思って暗いのを待っていたけど、暗くなると急に早く行けば良かったかなと思えてしまっていた。
 それに、何だか夜というのは寂しさを自然と感じる気がしたから。僕は西沢さんに早く会いたくなった。
「よし、行くか」
 荷物をまとめて、豆電球の明かりを消して。僕は二階に下りた。
 特に慌ただしくもなく、ゆっくりと一階に下りる。
 とりあえずお嬢様とマリアさんに挨拶をしようと思い、僕はお嬢様の部屋へと向かった。
「お嬢様、ハヤテです」
 扉の前で僕はそう声をかけると、ゆっくりと扉が開く。
「おお、歩の所に行くのか」
「はい」
「そうか。まあ、私たちのことは気にせずにゆっくりとしてこい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「ナギの事は私がちゃんとしておきますから。明日と明後日は土日で休みですから、西沢さんと一緒に楽しい時間を過ごしてください」
「ありがとうございます、マリアさん」
「ふふふっ、まさかこのような日が来るとは思いませんでしたね。ナギ」
「まったくだな」
 お嬢様とマリアさんは互いに笑い合っていた。まあ、確かに僕もこういう日が来るとは思わなかったな。まあ、半年以上前に事情があってヒナギクさんの家に泊まったことはあったけど。
「ハヤテ。一応言っておくが、秩序ある生活を送るのだぞ?」
「当たり前じゃないですか」
「まあ、ハヤテに言う必要なんてないけどな。だって、私の執事なのだからな」
「……そうですね」
「だけど、歩の前ではハヤテはちゃんと恋人として接するのだぞ。私のことなんか考えなくてもいいんだからな」
 お嬢様は僕に目を向けず、恥ずかしそうに、呟くように言った。
「分かりました。それではいってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい、ハヤテ君」
「はい」
 僕は一礼をして、玄関へと向かうと入り口の引き戸が開いた。
「あっ、ハヤテ君……」
「ヒナギクさん……」
 どうやら、ヒナギクさんと千桜さんが一緒に帰ってきたらしい。生徒会の会議があったからだろう。
 しかし、何故か千桜さんは気まずそうな表情をしている。
「おかえりなさい、ヒナギクさん。千桜さん」
 僕はいつものように笑顔で言った。
「ああ、ただいま。綾崎君」
 千桜さんは普通に返事をしてくれたが、
「……」
 ヒナギクさんは何も言わなかった。不機嫌そうな表情は昨日の朝からいっこうに消えそうもない。
「ところで、綾崎君。その荷物はどうしたんだ? どこかにでも行くのか?」
「ええ、西沢さんの家に泊まりに行くんですよ」
 その瞬間、ヒナギクさんは静かにうつむく。
「そ、そうなのか。明日は土日だから、ゆっくりしてくればいいんじゃないか?」
「ええ、そのつもりです」
「……ヒナも何か言ったらどうだ?」
 千桜さんはヒナギクさんに話を向ける。ヒナギクさんはうつむいたまま、少し時間が流れて、
「ふうん、歩の家に泊まるんだ。そんな仲なんだね、二人ってもう」
 やっぱり、お嬢様の言うとおりで女性の家に泊まるというのは、そこまでの仲でないとできないことなのか……。
「えっと、その……」
「それなら歩と仲良くしてくればいいわ! 別に、私は何にも気にしてないんだから!」
 ヒナギクさんは顔を上げるや否や、僕にそう言い飛ばして自分の部屋へと入ってしまった。まったく、昨日からヒナギクさんはどうかしたのかな。
 千桜さんはやれやれといったような表情で、
「……綾崎君」
「どうして怒っているんでしょうね」
「そうだな、ヒナは優しい人だから。きっと、綾崎君が西沢さんとちゃんと付き合えればヒナも自然と綾崎君と向き合ってくれるよ」
「千桜さん……」
 さすがは生徒会書記。僕の知らないヒナギクさんのことも分かっているのかな。
「ヒナのことはあまり気にするな。綾崎君がそんなことで元気がなかったら、西沢さんが笑顔になれないだろう?」
「そうですね、千桜さん」
「まあ、ヒナのことは私やナギ、マリアさんに任せてくれ。あと、アリスちゃんだっているんだから」
 アリスとは天王州アテネのここでの呼び名。ちなみに、命名したのは彼女自身。とある事情があって少しの間だけヒナギクさんと一緒に住むことになっていたのだが、色々と収集がついていないので延長して彼女と過ごしている。
「はい」
「じゃあ、いってらっしゃい。綾崎君」
 千桜さんは小さく手を振り、僕はムラサキノヤカタの玄関を出た。外はすっかりと暗くなっており、僕は早足で西沢さんの家に向かった。


 西沢さんの家の前に着いたとき、空には月が浮かんでいた。
 中秋の名月の時期に近く、そして満月に近い大きさの月だからかとても綺麗だった。あとで西沢さんと一緒に見たいところだ。
 僕はインターホンのボタンを押した。数秒すると、
『ハヤテ君?』
「はい、お言葉に甘えて来ました」
『来てくれてありがとう。ちょっと待っててね』
 インターホンの通話は切れ、すぐに玄関の扉が開く。
 中からは明るい灰色のパーカーシャツ上に着て、黒系統の色のスカートを履く西沢さんの姿が現れた。ちなみにスカートの丈は足が膝よりも少し上まで露出しているので、少し短めという感じ。あまり見てはいけないけど、綺麗な脚だ。
「そんなにじっと見られると、何だか照れちゃうな」
「ご、ごめんなさいっ! ただ、その……可愛かったので」
 少し暗かったけれど、分かった。西沢さんはもともと頬を赤くしていたけど、もっと赤くなった感じ。桃から林檎に変わった感じ。
 どちらの西沢さんも可愛く思える。
「そんなことを言われるともっと照れちゃうかな」
 西沢さんはそう恥ずかしそうに言った。そして、僕の目を見て、
「いらっしゃい、ハヤテ君。待ってたよ」
「おじゃまします、西沢さん」
「今から作ろうとしてた所なの。早く入って」
「はい」
 僕は西沢さんの家の中に脚を踏み込んだ。
 家の中はごく平凡な団地の一室といった感じだった。僕にとってはこの普通の環境でもお嬢様と出会う前ならば天国のように良かったに違いない。
 僕は用意されていたスリッパを履いて、リビングまで歩いていく。リビングには西沢さん以外の人の姿が見えなかった。
「西沢さん、ご両親の方は? あと、弟さんがいたと思いますが。この時間なら他に誰かいてもいいはずですが」
「あっ、お父さんとお母さんと一樹は……旅行に行ったんだ。まあ、正確には下田のおばさんの家にね」
「春休みに行きましたね。下田は」
「うん、懐かしいね。あれからもうすぐで半年経つんだね」
「ええ、意外と時間が経つのは速いですね。まあ、そんなことを言っててもその間には色々ありましたが」
「気づけばアパート暮らしだもんね、大変なんじゃないかな。特にナギちゃんなんて」
「最初こそは色々と文句はありましたが、すぐに順応してくれましたよ。まあ、今日も学校の帰りの時に暑くて嫌だと文句を言っていましたけど」
「ナギちゃんらしいね、想像できちゃうな」
 そうか、あれから半年経つのか。
 それからは色々とあったな。アーたんと再会したことと、ムラサキノヤカタに住んでいることは予想外だったけど。
 西沢さんのご家族は下田に行っているのか……ということは、今、この家には僕と西沢さんの二人きり……。
――ふ、二人きり?
「ということは、まさか……」
「うん、今夜はハヤテ君と私の二人きりだよ。あっ、明後日の夕方まではずっと二人きりだからね」
「そ、そうなんですか」
 たしかに、お嬢様やヒナギクさんの言うとおり……こういうシチュエーションはやはり相当な仲でないとできないというのは分かった気がする。
 しかし、僕と西沢さんは今や恋人同士! きっと、神様だって許してくれるはず!
「ハヤテ君、まずは夕飯食べようよ! 今から私が作ってあげるから!」
「あっ、だったら僕も手伝いますって」
 と、持ってきた荷物をリビングの隅に置いてキッチンに行こうとすると、
「だめだよ、ハヤテ君」
 薄いピンク色のエプロンを着た西沢さんが、僕の両肩を前から押さえた。
「ハヤテ君はお客さんなの。それにメールに書いてあったでしょ。今日の夕飯は私が作るって」
「そうですね。でも……」
「今は執事のハヤテ君はなし。もしかしたら今は執事なんて関係なくて、ハヤテ君の優しさで手伝ってくれるならそれは嬉しいよ。でもね、ハヤテ君。もうちょっと私に甘えてくれたっていいんじゃないかな?」
 西沢さんは少し悲しそうに呟いた。
 確かに、僕は執事として西沢さんに接していたのかもしれない。西沢さんは僕に何かしてあげたいんだ。でも、僕がいつもの調子で手伝おうとするから、だから……。
「西沢さん、早く西沢さんの作った料理が食べたいです」
「ハヤテ君……」
「僕は座って待ってますから。それにメールで書いてあったでしょ。西沢さんの料理を楽しみにしているって」
――そう、これでいいんだ。
 僕は西沢さんの恋人なんだ。西沢さんがしたいと思っていることを、僕は喜んで受け入れよう。そこに関して僕は疎い人間だから。
 西沢さんは目には涙を浮かべていたが、ぱっと明るい表情になって、
「うんっ、頑張ってハヤテ君のために作るよ!」
「はい」
 僕はリビングのテーブルイスに座った。
 しかし、何もすることがない。テレビを見ようにも近くにリモコンが見あたらないし、新聞を読もうかと思ってもこれまた近くになかった。
 だけど、そんなことをしなくても良さそうだった。
 僕は料理を作っている西沢さんの後ろ姿をずっと見ていた。普段は僕がお嬢様などに料理を作るので、このような光景は意外と新鮮で見ていて飽きない。見ていて幸せな気分になれる。平凡かもしれないけれど。
「そういえば、何の料理を作ってくれるんですか?」
「ハンバーグだよ」
 たしかに、西沢さんの手の動きを見ればひき肉を使った料理だと分かった。右手で力を込めてこねているのが見える。
「僕、ハンバーグ大好きですよ」
 西沢さんの肩が少し縦に動く。
「私もハンバーグ大好きなの。まあ、私はヒナさんみたいに料理が上手じゃないし。で、でも料理をするのは好きなんだよ?」
「そういえば、ヒナギクさんの家に行った時に、ヒナギクさんもハンバーグを作っていましたね」
「えっ?」
 ハンバーグの生地をこねる手の動きが止まる。
「どうかしましたか?」
 西沢さんは振り返ると、少し涙を流していた。
「う、うううっ……」
「西沢さん……?」
「こねる前にタマネギ切って、泣くのを必死に我慢してたんだけど……我慢が限界に来ちゃったよ」
「あ、ああ……別に我慢しなくてもいいんですよ?」
 僕はイスから立ち上がって、西沢さんのすぐ後ろまで立つ。そして、
「ひゃあっ! な、何やってるのかな? ハヤテ君……」
「西沢さんが泣いてしまうときは、こうやって僕が抱いてあげますから」
 そう、僕は後ろから。
 僕は後ろから西沢さんのことを抱きしめた。といっても、西沢さんの後頭部を僕の胸に当てて、僕の両手を西沢さんの胸の少し上くらいの所に触れているだけだけど。
 西沢さんの右手にはハンバーグの生地がついていた。
「ハヤテ君……」
「料理の邪魔になってしまいますね。すみません」
「うううん、別にそれはいいんだよ。でも、こんなこと……他の人に見られたら何だか恥ずかしいよ」
「ご、ごめんなさい。でも、今日は二人きりですよ?」
 西沢さんの耳元にそっと囁くと、
「はうっ! もう、こうされてるだけで幸せだよ……。今だったら死んでもいいかもしれない」
「あははっ、大げさに言うんですね。西沢さんは」
「だってこんなこと、してくれると思わなかったもん。もっと泣いちゃうよ」
「その時は僕がもっと強く抱きしめますよ」
 きっと、こんな光景を誰かが見ていたら「このラブラブなカップルめっ!」とか言って、目の敵にしそうな気がする。
 実際に料理の妨げになりそうなので、そっと西沢さんを離した。
「ごめんね、泣いちゃって」
「いえいえ、お嬢様もささいなことで泣いてしまう人ですから」
「ハヤテ君は優しいんだね。それは初めて出会ったときから変わらない。あの時も私のことを必死に守ってくれた」
 西沢さんとの出会い。
 たしか、西沢さんがマウンテンバイクで坂を下っていたら、ブレーキが壊れていて……スピードを上げるマウンテンバイクを僕が止めたんだっけ。
「まあ、痛みという意味では必死だったかもしれませんね」
「でも、そのことがなかったらハヤテ君のこと好きにならなかったかも」
「……結果オーライってことでいいんじゃないですか?」
「そうかもしれないね」
 西沢さんはハンバーグの生地を適当な大きさに取り分けて、小判のような形にしていく。手つきもなかなかいい。
 それを四つ西沢さんは作った。僕と西沢さん、それぞれ二つずつというところか。
 そこからは料理をするのが好きだと言ってただけあってか、西沢さんは慣れた手つきでパンバーグを焼いていく。なかなか美味しそうに焼けている。
 盛りつけ皿にはキャベツの外の葉を手で大きく二、三枚にちぎったものを乗せて、その上にポテトサラダ、ニンジンのグラッセ、ハンバーグを焼いている横で茹でていたペンネを乗せる。
 そして、主役のハンバーグが二個。皿に乗せられる。
「はいっ、今夜の食事が完成だよ」
「美味しそうですね、西沢さん」
「ちなみに、デミグラスソースはお好みでかけることにしてるんだ。うちは」
 西沢さんは同じ物をもう一つ、作る。同じ料理を作って食べられるのはやっぱり嬉しいことだな。
 その後は僕も手伝った。といっても、配膳だけど。
 僕の向かい側のイスに西沢さんが座る。箸、ナイフ、フォークを出してもらい、僕は三千院家で培った配膳方法で配膳をしていく。それには西沢さんも驚いていた。
 配膳は一通り終わり、僕はイスに座った。
「こういう時はフランスパンみたいな、とにかくパンの方がいいんだろうけど……今日は白いご飯でもいいかな?」
「ご飯でも合いますって」
「そっか、じゃあご飯、よそるね」
 西沢さんは茶碗一杯に白いご飯を盛って、僕に出してきた。うん、食卓は何だか心温まるラインナップになっている。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
「ハヤテ君。さっそく、ハンバーグから食べてくれないかな?」
 西沢さんが僕のことをじっと見てくる。言われなくても、もちろん僕はそうしようと思った。ハンバーグにデミグラスソースをかける。ナイフとフォークを持ち、僕はハンバーグをゆっくりとハンバーグを切っていく。
――なんということでしょう。肉汁が溢れんばかりに出てくるではありませんか。
 これは味にも相当期待ができそうだ。僕は一口、ハンバーグを口の中に入れる。
「んんんっ!?」
 僕が咀嚼をする度に、熱々の肉汁が口の中に広がっていく。肉も柔らかく、何だか西沢さんの優しさを感じた。手でこねることが必要な料理はこういう風に思えるから、僕は好きだ。ハンバーグが好きなのはそれが理由。
「ど、どうかしたのかな?」
「いえ、あまりに美味しすぎて思わず唸ってしまいました。美味しいですよ、西沢さん」
 僕は思ったことをそのまま言うと、西沢さんは満面の笑みを浮かべて、
「良かった。口に合わなかったらどうしようって思って」
「そんなことないですよ。こんなに美味しい料理が作れるなら、きっと将来は良いお嫁さんになれますって!」
 さっきの調子で僕は思ったことを言葉に出していた。西沢さんは頬を赤くし、僕のことちらっ、ちらっ、と見ると、
「じゃあ、ハヤテ君のお嫁さんにもなれるってことなの、かな……?」
 恥ずかしそうに西沢さんは僕に上目遣いをしながら訊いてきた。僕はそれになかなか答えが思い浮かばない。
 しばしの沈黙の時間が流れる。
 そして、
「変なこと訊いちゃったね。ハンバーグ、冷めないうちに食べちゃおうよ」
「あっ、はい……すみません」
「でも、嬉しいな。料理に少し自信が持ててきた」
「……西沢さんならもっと上手になりますよ」
 それはもう美味しそうに食べていた。やはり、女の子って美味しい物に弱いんだな。そして、そんな西沢さんがとても可愛らしい。
 僕はもちろん残さずに全部食べた。その間も色々なことを話した。潮見高校と白皇学院のことや、周りにいる人のことや、もちろん、僕が潮見高校にいたときの思い出話とか。もうないかと思うと次々と出てくるそんな話を、僕らはずっとした。
 食事の片付けを一緒にして、一区切りすると……僕は西沢さんの部屋に連れてこられた。
「ここが西沢さんの部屋ですか」
「う、うん。あんまり周りをキョロキョロと見られると恥ずかしいかな」
 西沢さんは自分のベッドの上に座った。僕は絨毯の上にある可愛らしい座布団に座った。
 普通の女の子の部屋だった。ベッドの上にはぬいぐるみはあるし、小さな箪笥と本棚のようなものもあるし。
 西沢さんは少し新しめのCDプレーヤーにCDを入れて、スピーカーから優雅な音色が部屋の中に響き始める。
「これは、たしか……」
「パッヘルベルのカノンだよ。クラシックも少し聴くんだけどね、この曲が一番好きなんだ」
「たしかに、この曲はクラシック初心者が導入のために薦められる代表的な曲ですからね。僕もこの曲は優しく優雅な音色で大好きです」
「親戚の人の結婚式にかかってた曲がこの曲で、私もいつか結婚するときはこの曲をかけてもらうんだ。それが私の夢の一つかな」
 まるで子供のように、何かに向けて期待しながらはきはきと話している。
「素敵な夢ですね、西沢さん」
「もちろん、その相手はハヤテ君だよ」
「えっ、僕ですか?」
「当たり前だよ。だって、ハヤテ君は私の好きな人なんだよ? 結婚するのが夢だって言ったら、相手はもちろんハヤテ君しかいないじゃん」
 西沢さんは平然にそう言う。
 僕は何となくその言葉が、世間で言う「プロポーズ」のように受け取ってしまった。急に心臓の鼓動が早くなる。そして、顔が急に熱くなる。
「あっ、もしかして今の、プロポーズだと思った?」
「……一瞬、ですけど」
「あははっ、否定はしないんだね。意外とハヤテ君ってそういうところは顔に出ちゃうんだ。かわいいね」
「べ、別に僕はその……西沢さんと結婚とか、そんなことはまだ考えてなくて」
「……そっか、私はちょっとだけ真剣だったけどな」
「えっ?」
 西沢さんは「くすっ」と笑って、
「だって、結婚する相手がハヤテ君であることが夢なんて、プロポーズみたいなものじゃない」
「……あっ」
「やっぱりハヤテ君はこういうことには、ちょっと鈍感なのかもね。まったく、ヒナさんは苦労してるんだろうな」
「……えっ?」
 「鈍感」という言葉までは聞こえたけど、その後は何て言ったんだろう?
 しかし、西沢さんは僕とそんなことまで……。僕なんてそんな先の事まで考えてもなかった。ただ、西沢さんと楽しくいられる日々があればいいって思っていたから。
「うううん、なんでもない」
 西沢さんは少し悲しそうな表情を一瞬見せた。しかし、その表情もすぐに消え去って、西沢さんは両手を合わせて、
「そうだ、今夜……ハヤテ君はどこで寝るつもり?」
「あっ、全然考えていませんでした。別に僕はリビングでもどこでもかまいませんよ」
「……どこでもいいんだね?」
「ええ、そう言いましたけど」
「だったら、今夜は私と一緒に寝よ?」
 僕はその言葉に、言葉が詰まった。
 想像はしていたけれど、やはりこういう展開になるのか。泊まるときは一緒に寝るということ。
「一緒の部屋にってことですか?」
 僕はそう答えると、西沢さんは不機嫌な表情になり、
「やっぱり鈍感だ、ハヤテ君。一緒のベッド……このベッドで一緒に寝ようって言ってるの」
「……えっ?」
「まったく、ハヤテ君は……私はそれだけハヤテ君のことが好きなんだよ?」
 西沢さんはそう言うと、四つん這いで僕の前まで迫ってきて、そっと口づけ。
「私はハヤテ君になら何をされてもいいって思ってるよ」
「……」
「顔が赤くなってるよ、ハヤテ君。じゃあ、私はお風呂に入ってくるから……ハヤテ君も私がお風呂から出たらすぐに入ってきてね?」
 右手の人差し指で僕の唇を押さえながら、西沢さんはそう言い残し……下着と寝間着を持って、部屋から出て行った。
「これも、相当な仲じゃないとできないことなんだよ、な……」
 僕はそれからすぐは何が何なのか分からなかった。
 ただ、唯一の救いは西沢さんがかけたクラシック曲がかかり続けていること。僕はそのおかげで平静をいち早く取り戻すことができた気がする。
 僕は今、彼女の部屋の中にいる。
 僕は今、彼女の部屋に一人でいる。
 もしかしたら、何かをするべきことがあるのかも分からないが、今の僕にはこのクラシック曲を延々に聞き続けることしかできなかった。
 それから約二十分後、西沢さんは薄い黄色の寝間着を着て部屋に戻ってきた。僕はさっき西沢さんに言われたとおりに、すぐに浴室まで向かう。
 浴室はこれまた普通の家のお風呂だった。ムラサキノヤカタは部屋の住人が共用で使うので、大浴場という感じだったのだが、こういう普通のお風呂も最近は全然見かけたこともなかったし、入ったこともなかった。
 顔、髪、身体を全て洗って、僕は湯船に浸かる。西沢さんが入った湯船だと思うと何だか緊張してしまうけど、お湯がちょうど良い感じで気持ちいい。
 窓があったので、少し開けると秋の夜の涼しげな空気が浴室に入ってくる。これもまた気持ちいい。
 夜空を見上げると、月が浮かんでいる。月見風呂という感じで、何だか小さな贅沢を味わっている感じだ。
 数分ぐらい湯船に浸かったところで、僕は浴室から出て寝間着に着替える。西沢さんの部屋に戻ると、
「ハヤテ君。意外と早いんだね」
「ええ」
 西沢さんはさっきと同じパッヘルベルの『カノン』を聴いていた。よっぽど好きなんだろうな、表情も優しくなっている。
「西沢さん、もう夜も遅くなってきましたし……そろそろ寝ましょうか?」
「えっ?」
「お風呂に入って、ちょっと僕は眠くなってきました」
「あっ、その……ハヤテ君。もうちょっとお話しよ? 夜は長いんだし、さ」
「そうですか? なら、そうしましょう」
 僕はさっき座っていた座布団に再び座った。すると、西沢さんは僕の側まで近寄ってくる。
「ハヤテ君……」
「何ですか? 西沢さん」
「今夜は二人きりだね。家には私とハヤテ君以外、誰もいない」
「そうですけど」
 西沢さんはそう言うと、急に僕を壁まで追い詰めて……僕の胸に飛び込んできた。シャンプーの香りが西沢さんから漂ってくる。
「もう、我慢できないよっ……!」
「えっ?」
「ハヤテ君。私はまだハヤテ君を寝かすつもりはないよ。うううん、私はハヤテ君とこうしていたいんだよ……」
「に、西沢さん……」
 西沢さんは僕のことをそっと抱きしめる。
 すると、西沢さんは僕にキスを何度もしてきた。そのうち何度かは下を僕の口の中に入れてきて、僕のと絡ませてくる。
――甘い、何だか甘い。
 頭が段々とくらっとしてきた。お風呂に入った所為なのか、西沢さんから漂ってくるシャンプーの香りの所為なのか、はたまたこの謎の甘さの所為なのか。
 僕は正常な判断ができそうになかった。
「西沢さん、何だか甘い……」
「ハヤテ君。“西沢さん”って呼ばないで。これからは“歩”って呼んで」
「……あ、歩……」
「よくできました、ハヤテ君」
「歩。いったい、何をしたいんですか……?」
 すると、西沢さん……いや、歩はゆっくりと一つずつボタンを外していく。自らの羞恥心の殺したように……。
 歩の吐息が僕の顔、そして首筋にかかってくる。甘い、この上なく甘い。
「私、ハヤテ君と今まで以上の関係になりたい。切っても切れないような関係に」
「切っても切れない……?」
「そう。さっき、私、言ったよね? ハヤテ君になら何をされてもいいって」
「ええ」
「本当にそう。ハヤテ君とならどんなことをしたっていい。どんなに辛くて、痛いことでも、ね」
 そして、ようやく分かった。
 歩が僕に求めること。そして、今から何をしようとしているのか……。
 でも、僕は不思議とそれを拒もうとしていない。まだ、僕たちの年齢ならしてはいけないことなのに。したとしてもこの先ががらっと変わる可能性だってある。
 歩はそこまでを見通して決意をしているのか……?
「歩、僕は……」
「しちゃいけないって言うのかな? でも、身体は正直みたいだよ。ハヤテ君はきっと、私と同じ気持ちなんだと思う」
「歩と同じ気持ち……?」
 西沢さんは優しい微笑みを見せた。
「今からすることは、私がしたいって言ったのがきっかけ。そして、どうなろうと私が責任を取る。それでいいんじゃないかな」
「歩はその時の覚悟はできているんですか?」
 僕は静かに訊いた。歩は少し言葉を詰まらしたけど、僕の方をしっかりと見て、
「うん、できてる」
「そう、ですか……」
 歩はそれなりの覚悟を持っているらしい。
 僕も歩と話していて、こうして二人きりの空間にいて……歩のしたいことと同じことを今、僕もしたいと思っているのかもしれない。
 歩のことをじっと見る。すると、歩は再び優しい微笑みを見せて、


「私はハヤテ君のこと、大好きだよ、愛してるよ。だから私と一緒に……いけないこと、しちゃうおうよ?」


――僕は静かに頷いた。


 そして、僕と歩はその夜……文字通り、“切っても切れない関係”を作ることにした。
 それは時に痛みを生じ、歩は涙を浮かべることもあった。だけれど、その先にある独特の快楽というのは、何なのだろうか。
 歩は僕を求め、僕もしだいに歩を求める。僕が動くと、歩は反応する。全てが愛しくて、愛しくてたまらない。
 そして、僕と歩が同じ快楽を味わったときに……僕は歩の身体に何かを残していったんだ。とても大切な何かを。


 そう、僕と歩は一つになったんだ。


――ここが、僕と歩の人生の一つの分岐点となった。



vol.4に続く。物語は二ヶ月後。ハヤテの誕生日に。
そして、今回の出来事をきっかけとした衝撃の事実が伝えられる。
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