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カノン

~SELL 1 告白~


――あの夏はとても暑かった。あの夜もとても暑かった。


「ありがとうございました」
 今日の最後のお客様を、僕は『喫茶どんぐり』の入り口前で姿が見えなくなるまで立っていた。店の掛札を『Close』にする。
 店の中に入り、気づけば僕も仕事の所為なのかこの熱帯夜の暑さの所為なのか、体中汗をかいてしまっていた。
「今日もお疲れ様、ハヤテ君」
 バイトの制服姿の西沢さんに僕はそう言われると僕は不意に、
「あ、ありがとうございます。西沢さんもお疲れ様です」
 西沢さんの顔を見ずに、しかも言葉を詰まらせてしまう。幸いにも西沢さんはそれを変に思っていないらしい。
 僕は近くにあった台布巾で端のテーブルから拭き始める。
「いや、今日は暑かったね」
「そうですね」
「もうすぐ秋だっていうのに、何でこんなに暑いんだろうね。二学期が始まるのが嫌になっちゃうよ」
 笑い混じりで西沢さんは僕にそう言ってくる。
――僕だって二学期が始まるのが嫌だ。
 そう思ったのは何時からなのか分からない。だけど、確実に言えるのはそう思うときは決まって西沢さんと一緒にいる時間だということ。
 どうしてなのだろうと考え、僕は西沢さんの顔をちらっと見る。
「ん? どうしたのかな?」
「あっ、その……何でもないです」
「変なハヤテ君」
 西沢さんは僕に微笑んだ。僕と同じことをしながら。
「そういえば、お嬢様がいませんね」
「きっとナギちゃんは更衣室で休んでいるんじゃないかな。今日も昼からずっと働いていたもんね」
 基本、この店は客があまり入ってこないけれど、さすがに夏休みなのか若い方達が今日は多く来店した。お嬢様と西沢さんが注文を取り、僕は厨房で料理を作る。途中、客として来たヒナギクさんも厨房に加わって、夕ご飯時まで普段に比べれば大忙しだった。
 僕がさっき見送ったお客様がいた頃の店内は、普段通りのこじんまりとした雰囲気だったので忙しくはなかったけど、あの昼の忙しさのせいかお嬢様はどうやらノックダウンしてしまったらしい。
「呼んでこようか? 閉店もしたし」
「いえ、いいですよ。疲れが少しでも取れたら来るでしょう」
「そっか。じゃあ、二人である程度掃除しちゃおうか」
「……そうですね」
 西沢さんの言うとおり、今、店内には僕と西沢さんの二人しかいない。意識すると、少しずつ足が震えてきた。
 そして、どうも掃除をしようにもする気になれない。掃除なんかよりも僕にはやりたいことがそこにあった気がしたから。
――それはきっと西沢さんに関係することなんだ。
 そう自分の中で結論づけて、
「あ、あの! 西沢さん!」
「どうしたのかな?」
 僕は西沢さんの方を向き、少し焦っているかのように落ち着きなく彼女のことを呼んでいた。
「えっと、その……」
 僕に見せてくれる西沢さんの笑顔を見て、自然とどきっとなる。
 西沢さんは少し首をかしげるようにしている。前髪がさらっと揺れる。
「顔を赤くしちゃって、ここそんなに暑いのかなぁ」
 か、顔が赤くなっているんですか!?
 そういえば、西沢さんに言われたら何だか頬の辺りが、氷が一瞬で溶けるくらいに熱くなっている気がした。
「それでどうかしたの? 私に言いたいことでもあるのかな?」
 一歩一歩。
 西沢さんは僕の方に歩み寄ってくる。その度に、僕の頬はどんどん熱くなって、きっと西沢さんにはどんどん僕の頬が赤くなっているのが見えているんだろう。
 このことで僕はようやく分かったんだ。
――僕は今、目の前にいる人に恋をしているのだと。
 そうだと分かったからには、言わなければ! 僕の気持ちを!
 しかし、僕の目の前に立たれると……なかなか言えない。足が震えて、言葉を出そうにも心臓がドキドキしてきて。
 あの時の西沢さんの気持ちがようやく分かった気がする。
「もう、はっきり言ってくれないと分からないよ」
 西沢さんは少し不機嫌な表情になる。そんなところさえ可愛いと思えてしまうほど、僕は西沢さんのことを好きになっていた。
「えっと、その……西沢さん」
「うん、何かな」
 よし、言うぞ! 一世一代の僕の勇気を見せるんだ!

「この前は西沢さんの田舎に連れて下さりありがとうございます!」

――何だか言おうと思っていたことと違う気がするぞ?
 いや、実際に違う。僕はつい先日までお嬢様やマリアさんたちと一緒に西沢さんのお婆さんの家に旅行に行っていたんだ。
 執事としての癖が出てしまったのだろうか。
 もしかしたら、それは単なる言い訳で僕のことを「チキン野郎」というかもしれない。まあ、確かに僕は「迷える執事」で「チキンな僕」かもしれないけど。
 それはさておき、西沢さんは少し驚きの表情を見せているがすぐに笑顔になって、
「なぁんだ、別にお礼を言われるほどのことをしたつもりはないんだけどな」
「お嬢様も自然に触れられるいい機会になりましたし、僕も久しぶりに普通の民家でゆっくりと過ごせた気がします」
「だったら良かったよ。ナギちゃんも文句は言いつつもちゃんと帰る日までいたし」
「そうでしたね。西沢さんのおかげです」
「そんな風に言われるとさすがに私も照れちゃうな」
 西沢さんは頬を赤くして、右手で後頭部をさする。
 この状態ならもしかしたら、僕の本当に言いたいことにも頷いてくれるかもしれない!
「でも、そうだね。夏の一時をハヤテ君と一緒に過ごせて私も良かったかな。去年の夏なんて、ハヤテ君はずっとバイトだったし」
「そうでしたね。去年の今ごろはこうしてお嬢様の執事になって、西沢さんと今一緒にいることなんて考えられなかったでしょうね」
「私も同じかな」
 西沢さんは上目遣いで僕の顔を見ると、すぐさまにテーブル拭きを再開した。西沢さんの手元はいつもとは違うように感じた。
 ここで僕もテーブル拭きを再開してしまったら普段と変わらない。
――僕の気持ちを西沢さんに伝えて、チキン野郎を卒業してやるんだ!
 普段に比べると、何て強気なんだろうと僕は可笑しく思っていた。これも、誰かを好きになったからなのだろうか。
 子供の頃はともかく、最近の僕は告白しようなんてことを考えられたことがあっただろうか。たぶん、これが初めてな気がする。
 だからこそ僕の足は再び震え始める。心に響かないように、僕は必死にその震えを止めようとするけど、全然止まらない。
 身体は正直だね、って台詞はきっとこういう時に使うんだって思った。
 大きく深呼吸をしてできるだけ気持ちを落ち着かせる。
「あの、西沢さん」
「うん? 何かな」
 西沢さんはテーブル拭きに集中しているのか、僕の方を向かなかった。でも、その方が言いやすいかもしれない。
 そう思ってしまうのはやっぱり僕は「チキン野郎」なのかなって感じた。
 だけど、僕は今こそ言うんだ。僕の気持ちを言うんだ。


「西沢さん、あなたのことが好きです」


 どのくらいなのか分からない静寂。
 僕は西沢さんの反応を見るまで、そのまま立ち尽くした。西沢さんは僕の言葉を聞いてから、布巾を持つ手が動いていない。
 このまま無音の空気を続けるのはどうかと思って、僕はとりあえず何かを言おうとしたけど、西沢さんは僕の方に振り返って、
「ハヤテ君、冗談が上手いんだね」
 笑顔でそう言い返してきたのだ。僕はそれには驚いて、
「えっ?」
 と、力ない言葉がぽろりと口からこぼれる。
「でも、それが冗談なのかも」
 西沢さんは改めて僕ににこりと笑顔を見せる。
「どういうことですか?」
「それはこっちの訊きたいことだよ。もし、ハヤテ君が本当に私のことが好きなら態度で示してくれないと」
「えっ? えっ?」
 相変わらずの笑顔で話すけど、西沢さん。それは……。
 僕は三度、足を震わせた。いや、これは心の震えだろう。
「態度で示すってどういうことですか?」
「それを考えるのはハヤテ君の仕事じゃないかな? テーブル拭きなんてそっちのけにしてね」
 西沢さんの言う「態度」。それはきっと、僕の想いを形に行動に表せってことなんだというのは分かっている。
 僕は好きだって言葉じゃ足りないくらいに、西沢さんのことが好きなんだ。気づかない間にそれだけ好きになっていたんだ。
 それを「態度」で表すには……。
 僕は西沢さんの目の前に立って、ゆっくりと唇を西沢さんの唇に触れた。
「……!」
 触れた瞬間、目をつむる一瞬で西沢さんの目が見開いたのが分かった。きっと驚いているんだろう。
 数秒間僕と西沢さんの唇は重なっていた。
 ゆっくりと離して、目を開くとそこには驚いている西沢さんと泣いている西沢さんの二人がいた。
「私のファーストキス、ハヤテ君にあげちゃった……」
「すみません。僕の気持ちはこれほど強いです」
「そう、なんだね。よく分かったよ、ハヤテ君の気持ち」
「西沢さん……」
「いじわるしてごめんね。ハヤテ君のこと、私はずっと好きだし……でも、どれだけ私のことが好きなのか確かめたくなっちゃったから、つい……」
 その言葉を話す西沢さんは、照れながらも笑顔でいるいつもの西沢さんだった。
「ありがとう、ハヤテ君。私も好きだよ、ハヤテ君のこと」
「はい」
「あぁ、ファーストキスはもっとロマンティックなシチュエーションでしたかったなぁ」
「ごめんなさい」
「でも、二人きりだったから十分かな? ファーストキスの相手はハヤテ君だって私は決めてたし」
「そうですか、西沢さん」
 そして、西沢さんは僕のことを抱きしめてきた。力強く、ぎゅっと。
「ハヤテ君、私、嬉しいよ」
「はい」
「ハヤテ君、私はあなたのことが好きです。私と付き合ってください」
 僕はその言葉に、もちろん。
 西沢さんを僕は優しく抱きしめて、
「はい、これから宜しくお願いします」
「……うん」
 僕の胸に埋もれていた西沢さんは顔を上げて、もう一度。今度はほんの一瞬だった。
 誰かに見られちゃ困るからな。


「ほぉ、なかなか興味深い瞬間を見てしまったな」


 誰かに……見られちゃ……。
 僕は後ろを振り向くと、そこにはナギお嬢様が腕を組んで悠然と立っている姿があった。表情は少し不機嫌なご様子。
「いや、これはその……!」
 僕は慌てて西沢さんの身体を離し、あたふたして声を上げる。
「分かっている。お前はハムスターのことが好きなんだな」
「……はい」
「ハヤテの態度を見てしまったからには、私はもう何も言わないさ。ハムスターのことを大切にするんだぞ」
 不機嫌な表情には似合わない言葉だけれど、その言葉は僕にとってすごく嬉しい言葉だった。あまり素直にこういうことを言えないお嬢様から聞けたわけだから。
 それよりも僕は訊きたいことがあった。
「あの、今の言葉だとどのくらいの場面から聞いていたんですか?」
「えっ? ハムスターが『お礼を言われるほどのことをしたつもりはないんだけどな』って言ったところからだけど」
「けっこう前からじゃないですか!」
 しかも、今の西沢さんの声の真似も上手だったし。
「まったく、ハヤテは私にぞっこんかと思ったらハムスターのことが好きだったとは。これは意外だったな」
「なっ、私は原作四巻でハヤテ君に告白してるんだから、その気にさせようと思えば何時でもできたんだからね。ていうか、まだハムスターって呼び方なの?」
「よいではないかっ!」
 お嬢様と西沢さんの言いあいも今では微笑ましい光景になっている。
「……まあ、今はすごく幸せな気分だから許してあげるけど」
 西沢さんはそう言うと再度、僕のことを抱きしめた。
「まったく、私も好きだったのにな」
「……えっ?」
「な、なんでもないさ。とにかく、私はハヤテがハムスターと付き合っても構わんと言っているのだ」
「ありがとうございます、お嬢様」
「その代わり、今までと同じように執事の仕事はちゃんとやってもらうからな」
 お嬢様は僕に右手の人差し指を突きつけながらそう言った。
 僕は執事だ。お嬢様の言うとおり、主のことはちゃんと気にかけないといけない。恋人が出来ると、そちらの方に目が行きすぎて本来すべきことができなくなってしまうことをお嬢様は不安に思ったのだろう。
「もちろんです、お嬢様」
「ならいいのだ。まあ、今までよりかはハヤテに自由な時間を与えようとは思う。私だってお前らの気持ちが分からなくもないからな」
 西沢さんは僕の身体から離れた。そして、お嬢様に笑顔で、
「ありがと、ナギちゃん」
「むっ、別に私は当然のことを考えたまでだ。それに、私だって諦めてないんだからな!」
「それって自分もハヤテ君のことが好きだって言ってるのと同じだよ」
「~~~~っ!!」
 お嬢様の頭からはピューッ、と湯気が出ている。
「わ、私はハヤテのことが好きだとしても、その……『ライク』だっ! 決して『ラブ』などではない! 絶対にそうだっ!」
「別に必死に否定しなくてもいいんだよ」
「くううっ! 所詮はハムスターのくせに揚げ足ばかり取りおって……!」
 髪を揺らしながら西沢さんは笑っている。それとは対照的にお嬢様はキーッと腕を振りながら怒っている。
「まあまあ、お嬢様。お嬢様が僕のことを好きでいらっしゃることは分かりましたから、これからも執事として宜しくお願いします」
 僕はまるで子供の気持ちを落ち着かせようとするように、お嬢様の頭をゆっくりと優しく撫でる。とても柔らかい感触だった気がする。
「だからっ! 私はその……『執事』として好きなんだ! 『男性』として好きだなんてことは絶対にないんだからな!」
「僕はどちらでもかまいませんよ。お嬢様をお守りする気持ちは変わりませんから」
 その言葉を言った瞬間、僕はふと疑問に思った。
 どうして、お嬢様のことを『守る』という言葉はすっと声に出せてしまうのだろうかと。
「その言葉、いつかはハムスターに言ってやるんだな」
「そ、そうですね」
 僕は西沢さんの方を向くと、西沢さんはぴくりと身体が反応する。「えへへっ」と控えめに、しかし可愛らしく西沢さんは笑った。
「西沢さん……」
「まあ、ハヤテ君。これから二学期が始まってきっと毎日は会えないと思うけど、出来るだけ会おうね。私もナギちゃんのアパートに遊びに行くから」
「……はい。マリアさんもヒナギクさんも千桜さんも、あとアリスさんもお待ちしていますから」
「うん。たまには家にも来てよね。そ、その……恋人なんだから」
「そうですね」
 何だか、『恋人』という言葉にどうも違和感があるな。
 潮見高校に通っていたとき、まともに女の子と話して……そして、唯一と言っていい僕のことを想ってくれていた人。それが西沢さん。
 僕の周りの中では、一番付き合いの長い『友達』という感覚だった。それは、何だか今この時も変わってないし、西沢さんもその方が自然な気がしてならない。
「その時は手料理でもごちそうしちゃおっかな……なんて」
「楽しみにしていますよ」
「何だか、私がいては邪魔そうな会話が展開されているな。いいんだぞ、それなら私はこのフィールドから消えてやるからさ」
 僕の隣で、お嬢様はそうつまらなそうに呟く。声のトーンからしても、本当につまらなそうな気がした。
 西沢さんと目を合わせて、お互いに頷き合う。
「……そうだ、私たちテーブル拭きしてる途中だったんだ」
「そ、そうでしたね」
「ナギちゃんも一緒にやろう? そうしたら、早く終わってハヤテ君と一緒に帰れるから」
 何だか一言多かった気がするけど、お嬢様は新しい布巾を持ってきて、
「そうだな。マスターが来るまでに終わらせよう」
 平常心を保っているような表情で、お嬢様は西沢さんの拭いている隣のテーブルを一所懸命拭き始めた。
 僕はそんなお嬢様を見てこう思う。
――「愛する」ことと「守る」ことって違うのかな。
 僕はきっと、『三千院ナギ』を『お嬢様』として見ているから、僕はお嬢様のことを『守る』とすっと言えるんだ。
 それじゃ、西沢さんは?
 それはきっと、これから彼女と付き合って分かることなんだと僕は思い、テーブル拭きを再開した。
 三十分後。テーブル拭きを始めとする店の掃除も終わり、ちょうど終わった頃に戻ってきたマスターに「お疲れ様」と言われ、僕たちは喫茶どんぐりを出た。
「今日もお疲れ様でした。お嬢様、西沢さん」
「うん、お疲れ様。ハヤテ君」
「お疲れ様なのだ」
 店の外は暗くなっていて、夜空を見上げると一つの月と無数の星が連なる天の川が綺麗に見える。
「綺麗な星空だね、ハヤテ君」
「今日は快晴でしたからね。夜になっても雲一つない空なんでしょうね」
「……今日は最高の日だったよ。ハヤテ君に告白されて、一緒に綺麗な星空も見られて。私、一生忘れないよ」
「僕も一生忘れませんよ」
 僕は西沢さんの顔を見て、お互いに笑い合う。もちろん、お嬢様の方も見る。すると、お嬢様は微かだったけど笑っているように思えた。
「じゃあ、私は帰るね。じゃあね、ナギちゃん」
「うん、またな」
「西沢さん、家まで一緒に行きましょうか?」
「私は大丈夫だよ。それよりも、ナギちゃんを一人で帰らせる方がよっぽど心配だって」
「……そうですか」
「うん、じゃあまたね」
「はい」
 西沢さんはゆっくりと歩き始めた。姿が見えなくなるまで、僕とお嬢様は店の前で見送った。
 そして、姿が見えなくなって僕はお嬢様の方を向く。
「じゃあ、僕たちも帰りましょうか。お嬢様」
「そうだな」
 西沢さんの歩いて行った方と反対側の道を、僕とお嬢様は歩き始めた。
 自宅からの行き帰りはリムジンだという生活からは離れ、こういう時の行き帰りに歩くことはお嬢様も大分慣れたみたいだ。
 しかし、西沢さんの言うとおり夜道をお嬢様一人で歩かせるのは心配になるな。街灯はついているものの、人とすれ違うことは全然ない。もし、お嬢様の身に何かが起こって助けを呼ぼうとしてもこの様子だと手遅れになりそうだ。
「なあ、ハヤテ」
「どうかしましたか、お嬢様」
 僕の左隣にいるお嬢様。恥ずかしそうに僕の顔を見て、一言。
「手、繋いでもいいか?」
 この静かな夜道だからこそ聞き取れるような、お嬢様はそんな声で僕に言った。
「はい、いいですよ」
 僕は左手を差し出すと、お嬢様の小さな右手が触れる。いつしか、その二つの手は指を絡ませていた。
 僕らはしばらく無言で夜道を歩く。するとお嬢様は、
「なあ、ハヤテ」
「なんですか?」
「歩に会いたくなったら私に言うんだぞ。そ、そのおかげで執事の仕事が怠ったら私やマリアが困るからな」
「ありがとうございます、お嬢様」
「しかし、歩がアパートに住んでくれれば一石二鳥なのにな。ハヤテはいつでも会えるし、私は家賃が入って繁盛だし」
「……たしかにそれは言えているかもしれませんけどね」
 満足げな表情をしているから、これ以上特に言うことはないか。
 そんな話をしていると、ムラサキノヤカタのアパートが見えてくる。部屋の灯りもついていて、何だか三千院家の屋敷では感じられない安心感がある。
「よし、今日の事をマリアや千桜達に言ってやろう」
「別にお嬢様から言うようなことではないじゃないですか」
 少し意地悪そうな笑みを浮かべるお嬢様。
 しかし、その日お嬢様はこのことを誰にも言わなかった。「言う気になったら自分から言えばいいさ」とアパートに入った瞬間に小声で言われて。
 本当は僕のことを西沢さんと同じように「好き」なのかなと思った。


――僕はこの日のことを、ずっと忘れることはなかった。



vol.3に続く。秋に突入し、歩への会いたい気持ちは強まる。
そして、ある日の夜。ハヤテは歩の家に泊まることに……。
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